ハル


 それは、微かな予感めいたものを彼に感じさせはしたものの、何事も起こらずに終わるはずだった。
 そうでなければいけなかったのだ。


 いやな空気だ。
 ハルは思った。風が止み、周囲に夜が降りてくる。
(ファー、あまりあの船の評判は良くないぜ。大体近道に魔海を通るってのが気に入らねえ。確かに期間は短くて済むけどよ)
(なあに、他の船よりちょっと魔海に近い所を通るってだけさ。襲われない程度に近いところ、少なくとも奴らはそう言ってたぜ。それに、奴ら結構臆病者だ。魔海すれすれを行く勇気なんざ持ち合わせちゃいねえよ)
 焼けた肌の上に黒髪を散らして、ファナルは笑ったものだった。
 北の海で捕らえたという白い熊の毛皮の房飾りのついた革紐で髪を結ぶと彼は酒場の席を立った。
(ハル、行くぜ。やばい目に合ったら報酬は四六でいいからよ。結構いい額を言ってきたぜ、奴ら)
 白い毛と黒髪が不思議なコントラストを作る。北で育ったというファナルが何故そこを飛び出してきたのか、ハルは知らない。どうでもいいことだ。
(その言葉忘れんなよ)
 そうして今、二人はこの船に乗っている。
 出会ってから八年、二人は良きパートナーだった。
 特定の船に所属しないいわば流れ者のような存在、報酬の良い船を選んで雇われる。意見の食い違いがたまにあり、違う船に雇われた時もあるにはあった。子供ではないのだから必ず一緒でなければならない理由はない。それでも、二人は誰よりも互いを理解した親友で、おおむね共に同じ船に乗り込んでいたのだった。


 じきに魔海が見えるあたりに着く。
(そろそろ向きを変えないとやばいんじゃねえの)
 このまとわりつくような重苦しい空気が気に入らない。
 なんだかこれは魔海から流れ出してきているのではないかという不安な気分にさせられ、腐臭さえ混じり込んでいる錯覚をおこさせる。
 これ以上不吉な海に近付くのは願い下げだ。
 その場を離れようと向きを変えたその時。
 大きな物音がした。訳もなく鳥肌が立つ。そして。
「ハル……」
 微かに彼を呼ぶ、聞き慣れた──いや、彼のこんな弱々しい声は聞き慣れてなどいない!──その、声。
「ファー!?」
 ハルは階段を駆け降り、そこにファナルの姿を見つけて階段の半ばで足を止めた。
「ハル、逃げ……」
 逃げろと? この狭い船の中を。
 血まみれだった。
 髪を結んだ飾り紐の白い毛は赤く染まり、彼の好んで着ていた革のベストの背にはナイフが突き刺さって、脇腹は溢れた血に濡れていた。
 船室から漏れる明かりにその姿が照らされ、ハルの網膜に焼き付けられた。
(一生この光景を忘れることは出来ないだろう)
 確信に満ちた予感が瞬間的に脳裏をよぎり、だがすぐにそんな思いは強烈な赤に押し流される。
「ど……」
 怒りに一瞬言葉を失った。
 喧嘩のわけがない。
 船の上で喧嘩をするほどファナルは馬鹿ではない。
「どういうつもりだ、てめえら!」
「仕方がないだろう」
 室内から出てきたのは船長だった。そして、他の船員達。手に手にナイフやロープを持っている。
「彼は魔海に捧げる贄なのだから」
 ああ……。
 目眩にも似たものがハルを襲った。だからか。だから、どうしても余所者を船に乗せなくてはならなかったのだ。
「今までずっと、そうやって魔海をすり抜けてきたのか、お前ら」
 そうまでして荷を早く届けなければならないものか?
 もちろん、早いに越したことはない。早いほうが金にもなる。だが、人ひとり殺してまで、しなければならないことなのだろうか。
「そう、次の港に着いても誰一人いなくなったことに気付かないような流れ者を神に捧げ、そしてこの船だけが見逃され、救われる」
 そんなことで「あいつ」が見逃してくれるなどという話は聞いた事がない。
 そんな馬鹿馬鹿しいことを今まで本気でやってきたのか、この連中は。
「お前は助けてやってもいいんだぞ」
「こいつを海に放り込むのを手伝って、港に着いても黙っているならな」
 馬鹿が!
 ぎり、とハルは唇を噛んだ。友を裏切り、命乞いして見せろというのか。
 ハルはゆっくりと階段を降りてゆくと、ファナルの脇に膝をついた。冷たい、ぬるりとした感触が伝わり、その量だけ彼の命が危ないことをハルに知らせた。
「ファー、聞こえるか?」
 耳元でそっと囁いた。武器を持った男たちが回りを固めているのを痛いほど感じながら。
「ハル……」
「動かすぞ、我慢しろ」
「ごめんな、俺が言うことを聞いてれば良かったんだ」
 そんな言葉、傷ついた彼の口から聞きたいわけではなかった。
「いいんだよそんなこと」
 下手にナイフを引き抜く訳にはいかない。そのまま出来るかぎりそっとファナルを起こし、腕に抱えた。ファナルの手が冷たい。
「そのまま甲板から海に投げ込みな」
 嘲りを含んだ声で誰かがハルに命じる。
 うるさいうるさいうるさい!
 背に投げかけられる言葉にぎゅっと目をつぶった。
「どう……するか」
 階段を昇りながらハルは呟いた。ファナルを連れてどうすれば二人生き延びられる? 二人共に海に飛び込むのは簡単だが、それではファナルの体がもちそうもない。
 かといって船の上では逃げ場もない。小舟を下ろすには時間がかかり過ぎる。どうすればいいのかわからなくて、焦りと危機感で視界がぐらぐら揺れてくる気がする。
「いいから…俺のことは、見捨てて、くれ」
 腕の中でファナルが身動きすると床に降り立った。
「馬鹿! んなこと出来るかよ!」
 叫びながら──自分の声が悲鳴のように聞こえて、我ながら情けなかった──ファナルのよろめく体を支えた。ぬるりと手が血で滑る。何かにすがりつきたいような気分で、ハルは必死で彼の腕を自分の肩に回した。
「出来ないなら俺達がやるぜ。ただし、それならお前も一緒だけどな」
 元々そのつもりだったしな。そう言って奴らが嘲笑う。
 魔海の水の中に………。
 この、まだ清浄な海に投げ込まれても、魔海に引きずり込まれるのだろうか。己への生贄は「あいつ」にはわかるとでも?
「ハル。…行くのは、俺だけで、いい」
 苦しい息の下でファナルが声を絞り出す。
 この船に引き込んだ責任をお前が感じることはないというのに。どうしても嫌だったなら、他の船に乗っていただろう。自分は自分の意志でファナルと共にこの船に乗ったのだから。
 ファナルはハルから身をもぎはなそうとした。流れる血が彼の力を奪ってゆく。見ているだけでそれが感じられるというのに。本当なら身体を動かす事など出来ない筈だというのに。
 こんなに強い心の持ち主だったのか、この男は。ハルは自分の感情を表現する言葉も知らず、ファナルの体を抱きしめた。
 死んでゆく。
 助からないのは誰の目にも明らかだった。
「ハル」
 自身の血で汚れた顔でファナルは笑ったようだった。
 暗くて良く見えない。二度と見られないかもしれないその顔が、はっきりと見ることが出来ない。
「これ、俺にくれよ」
 震える指を伸ばして、彼はハルの額に巻いた朱色の布を取った。少し色の落ちてしまった、肌になじんだ布だ。
「海の底まで持っていくから」
「ばかやろ」
 ハルは弱々しく言った。
 海とはどの海だ? この海か、それとも魔海か。ヴァルフィディアル神よ、彼に救いを。
「こんなもん、いくらでもくれてやるよ」
 ファナルは小さく声を立てて笑った。
「お前は、赤が似合うよな」
 薄闇の中では赤い色も闇色に染まる。
 赤い赤い……血の色に影が落ちてハルの感情に紗幕を掛ける。今は、泣いても意味がない。
「いいかげん、早くしろよ」
 苛立ちの混じり始める声。それはそうだろう。早くしないといつ「あいつ」の迎えが来ないとも限らない。
 身の危険を感じはじめたのだろう。
「もういい! こいつもやっちまえ」
 一人が突然ファナルの背からナイフを引き抜いた。
 血しぶきが上がり、ハルは信じがたいものを見るように、目をみはった。
 かすれた声を上げてファナルが甲板に崩れた。暗い色が甲板に散る。周囲に、そしてハルの目の前に。
「きさまら!」
 よせ、と倒れたファナルの目が懇願する。だがどうしてやめられる!? ハルはベルトに差し込んだナイフを抜き放ち、手当たり次第に襲いかかった。
 どうせ勝ち目のない闘いならば、連れて行ける限りの人数を道連れにするのだ。仲間になれば助かると、そんな可能性などくそくらえだ。
 後ろから体当たりをくらってふっとんだ。立ち上がるハルの目の前でファナルの体が海に投げ込まれる。
「ファー!」
 青白く照らされて妙に非現実的な光景……それが彼にひどく不快な違和感をもたらした。さっきまで暗かった。夜のこの時間になぜ明るいんだ!?
「来やがった!」
 反対側にいつの間にか船が一隻あった。
 妙に古びた、難破船のようなこれは……これが、幽霊船か? 魔海の主、ケルサルティウスの操る死人の船。海の底から引き上げてきたようにびしょ濡れで、「あいつ」の暗い怨念をまき散らす。いまや、船は全体が鬼火に照らしだされていた。
 その異様な明かりの中で海面に浮かぶファナルが見え、動揺してパニックに陥る船員達の隙をついてハルは海に飛び込んだ。いざとなったら魔海を囲む陸地まで泳いで、そこからどうにかすればいい。「あいつ」に捕まったら、それはもう仕方がないだろう。やつらもどうせ同じ運命をたどるのだ。
「ファー!」
 ファナルの浮き沈みする姿を目指して泳いだ。船の揺れで起こる波のせいでひどく泳ぎにくい。船の上では叫び声がしている。何が起こっているのだろう、だが今はそれどころではなかった。
 やっとのことでファナルに近づくと最初に指先の触れた革のベストを掴んだ。
「ファー! 生きてるか!? しっかりしろ!」
「ハ・ル……」
 かなり水を飲んでいるらしかった。
「生きてるな!? よし、ここから離れるぞ」
 陸に早く上がらなければ水がファナルの身体から体温を奪う。いや、何よりも早く船から離れなければ。魔海に引き込まれてしまう恐れがある。彼の首に腕を回そうと、掴んだベストを引き寄せた。
「よ……」
 よせ、とファナルは言いたかったのだろうか。無駄な事をして己の命まで危うくするなと。
 だが、確かめる暇も、ファナルが続ける余裕もありはしなかった。
「畜生……」
 視界に、海の中から現れるもう一隻の朽ちかけた船が見えた。その出現と共に大きな波が二人に被さって二人は海に沈み、ハルはファナルを放さないように必死で手を握りしめて、そして──。


 目が覚めたのは、見知らぬ砂浜だった。
「ファー?」
 誰もいない。
「ファー……」
 たった一人。
 手に固く握りしめていたのはファナルのベストの切れ端だった。多分ファナルの背からナイフが引き抜かれたときにほとんど切れていたのだろう。薄いとはいえ、丈夫な皮がそう簡単に破れるわけがない。
 天にも地にもただ一人。
 誰もいない。ここは、いったいどこなのだろう。
 立ち上がろうと砂浜に片手をついた。握りしめた手が開かなくなってしまったのに気付いて立つのをやめ、一本一本無理矢理指を開いていった。半分に切れたファナルのベストが灰色の砂の上に落ちる。
 細長くたたんでベルトに挟み込み、今度こそ立ち上がった。
 遠くに魔海が見えた。
(こんなとこじゃ船は通らねえな)
 歩いていればいつかは人家にたどり着くだろう。
 呟いて、ハルは魔海に背を向け、歩きだした。
 身も心もくたくただったが、それでも、彼は生きるために歩きださなければならなかった。でなければ、ファナルに顔向けができない。
 汗が目に入ってきたので、いつも額に巻いていた布がないのに気がついた。当然だ。あれは、ファナルが持っているのだから。
(海の底まで持っていくから)
 そうだな。俺も死ぬときはお前の残したこいつを海の底まで持っていこう。
 細長く切って縫い合わせれば鉢巻きになるだろうから。
 ハルはゆっくりと砂浜に足を踏みしめて、死ぬ時はやはり海で死にたいと思った。


 その後、ハルが助かったのは船の上にいなかったからだということを教えてくれた魔海帰りの少年がいたが、ファナルと自分を殺そうとした奴らが幽霊船にとり殺されていい気味だとは思わなかった。どうせなら、自分の手で皆殺しにしてやりたかったというのに。
 馬鹿な奴らだ。生贄を用意して自分たちが生贄になってしまった。だが、奴らにファナルを殺させた魔海など大嫌いだ。ケルサルティウスを、もう「あいつ」とは呼ばない。自分から最高の相棒を永遠に奪った相手、恐れたりは二度としない。神だろうと決して許さない。
 ハルはケルサルティウスの餌食になった船程ではないが、数ある船のなかで最も魔海の近くを通る貿易船に雇われた。
 その航路には目的があるのを聞かされても怯まず、ただ彼はその船の船長に微笑んだ。
「魔海には、俺も貸しがあるもんで」
 いつかまた、自分は魔海でもう一度死に直面するだろう。だが怖くはない。その時には孤立無援ではないはずだし、心の準備も出来ているのだから。
(行くのは俺だけでいい)
 それでも、いつかは自分も行くのだ。
 青い海の底に。
 ファナルの形見を額に巻いて。
 今日も海は青く健康で美しかった。
 しばらくの間ファナルをその御手に預けます。
 あなたの御許で彼がやすらかなることを──
 ハルはヴァルフィディアル神の清冽な海に祈った。

END      




 外伝なので……。
 魔海とその主の設定判らないですね。すいません……説明いりますか?
 これはドラッグコンビのお話です。
 何がドラッグコンビかっていうと、ハルは「ハルシオン」で、ファナルは「マリファナ」
なのです。最初ハルの正式名称を「ハルシオン」にしようかと思ったけど、さすがにやめた。
 ハルは本編では脇です。ファーは出て来ません。でも結構好きなのでした。
 ファーの呼び名がこんななのは、「ファナ」だと女みたいだし、「ナル」はナルみたいだし(^^;)、「ファル」だとハルとかぶるから。


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