星降る夜に


 雪が降っていた。
 雪が降るなんて、天気予報では言っていなかったので私は傘を持っていなかった。でもそれほど凄い雪ではないし風も吹いていないのだから、雨よりはましだ。
 薄闇を染めるかのように白い雪が空から降ってくる。道路にはまだ雪は積もっていないけれど、雪は確実に薄暗い道を染め上げていく。
 駅から家に帰る途中には小さな公園がある。
 子供の頃は良く遊んだし、その後も散歩したけれど、今は通り過ぎるだけの公園だった。
「お姉ちゃん、猫好き?」
 ふいに声を掛けられて私は足を止めた。
 公園の入口に小学校低学年くらいの小さな女の子が立っていた。
 雪の中で傘も持たず、しかも薄着で、淋しそうな目をした少女。私も傘は持っていないから人の事は言えないけれど、寒くないのだろうか。
「……?」
 首をかしげる私に彼女は再び問う。
「猫好き?」
「……好きよ」
 好きか嫌いか問われれば、答えはこれしかない。猫に限らず大抵の動物は好きだけど。私が答えると彼女は必死の形相で私に言った。
「お願い、あの子を飼ってあげて」
 もう夕方とも言えないような時間にさしかかってきて、薄暗い上に雪まで降っている。暗くなるのも早い今ならば子供はとっくに家に帰って夕飯の一つも食べ、テレビでも見ているのが当然だ。近頃は物騒な世の中だから、小さな女の子が一人でこんなところにいるのはどう考えてもおかしかった。
「一人なの?」
 彼女は頷いた。
「お姉ちゃん、お願い」
 そう言って指し示した先には古いキャリーバッグがあった。
 どこかで見たようなデザイン。
 私は頭の片隅で考える。どこかで見た。どこかで……でも思い出せない。
 近付くと、ミャアと中から小さな声がした。捨て猫だ。
「あたしは飼えないの」
 少女は言う。
「それに、ここはダメなの。あぶないの」
 危ないどころか、こんな寒い雪の中に置いていたら死んでしまう。
 とにかく、しゃがみこんでキャリーバッグを開けた。
 中に入っていたのは小さな小さな一匹の子猫。ふわふわした塊が寒さにもめげずに動いているのを確認し、私は思わず溜息をつく。
 良かった……この子はとても運がいい。
 身体に対してアンバランスに手足の大きな子猫は、多分捨てられたばかりなんだろう。それほど汚れていないし、元気だった。まだふさふさしていない細い尻尾がひょろりと動く。
 生後まもない子猫は飼いきれなかったか、この子だけ引き取り手が見つからなかったかしたのだろうか。キャリーバッグに入れて捨てるのだから、一応は猫や犬を飼っているか、飼った事のある人が捨てたのだろう。
 こんなに小さな、いたいけな子猫だというのにどうしてそんな事ができるのか、私には理解出来ない。
 もっとも、それより酷い事が平気で出来る人だって世の中にはいるのだ。そう心の中で呟くと、胸の奥をちくりと刺す痛みがあった。
「この子を助けて」
 中に入っていたタオルごと子猫を抱き上げた私に少女が縋るような目で訴える。
 近付いて、私を見上げたその顔には額や頬に痛々しい傷がついている。いじめか、それとも親の虐待かと思える程の生々しい傷は手当された様子さえない。よく見れば手足も傷だらけで、いっそ子猫よりも彼女の方に保護が必要かもしれない。
 ふと思った。
 ひょっとして、この子猫を捨てたのは彼女の家族なのだろうか?
 親兄弟が捨てた子猫が心配で、拾ってくれる人が来るのを夜になっても待っているのかもしれない。あるいは、飼い主が見つかるまで家に帰ってくるなと言われているとか。
「あなたの猫ちゃん?」
 柔らかく小さな子猫が、とりあえず元気そうなのを確認しながら私は訊ねた。
 ふるふると少女は首を振る。ふわりと雪が舞った。
「あたしじゃ助けてあげられないの。でもここにいたら死んじゃう」
 雪が降っているのだから当然だ。それに、既にこの子を連れて帰る気になっていた私は、それよりもこの少女を警察に届ける必要があるのではないかと考え始めていたので、彼女の言葉の意味を深くは考えなかった。
 腕の中にいる小さな子猫は、冬の寒さなど感じていないかのように少女に片手を伸ばして子猫らしい声でにぁ、と鳴いた。
 今はもう私はペットを飼っていないから、この子猫を飼う事は出来る。
 私の腕の中はこれまでダイスケでいっぱいで、他のものは入る余地がなかった。でも今、この腕の中は空っぽになっている。
 私の心も空っぽで、冷たい風が吹き抜けていく。
「この子を助けて」
 そう言う彼女の顔は傷だらけで、目を背けたくなるほどに痛々しい。
「この子を他の人に渡さないで」
 ずきん、と胸が痛んだ。
 昔、ダイスケが猫嫌いで飼ってあげられなかった一匹の子猫がいたのだ。やっぱりこの公園だった。この公園のベンチの脇にひっそりと置かれたキャリーバッグの中に入れられていた子猫。
 見つけたのは友達で、でもその子はマンションに住んでいて動物を飼う事が出来なかった。
 小さかった私はダイスケにはしばらく我慢してもらって、飼ってくれる人が見つかるまで家に置こうと思った。もっと前には家で猫を飼っていた事もあるし、問題はダイスケだけだったから。
 家に電話をして連れて帰っていいという許可を得るために、公園の入口にあった公衆電話まで電話を掛けに行った。私は携帯電話なんて持てない子供で、第一そんなものはまだ広く普及していなかった。
 その時、キャリーバックを覗いておろおろしている子供に気付いたらしく一人の男の人が公園の入口で足を止め、子猫を見ていた友達の所に近付いて行くのが見えた。
 私は自宅へダイヤルする手を止めてその様子を見守った。二人で何か話している。
 友達が私の方を見て手招きしたので受話器を置いて戻ると、見知らぬお兄さんが子猫の入れられた古びたキャリーバッグを抱え、自分が子猫を飼うと言って笑った。猫が大好きなのだと。そして彼は子猫を連れて公園を立ち去ったのだった。
 捨てられた子猫を見て嬉しそうに笑う猫好きの人間なんておかしいと、今なら思うのに。
 私達はすぐに飼い主になってくれる人が見つかって良かったと無邪気に喜んでそれぞれの家に帰った。まったく、二人ともなんておめでたい子供だったんだろう。
 一週間後。傷だらけでボロボロの子猫の死体がキャリーバッグに入れられてゴミ捨て場に放り出されていた。
 私の家の近くではなかったし、実際に私がそれを見たわけではないからそれが同じ子猫とは限らない。だけどゴミ捨て場で死んでいたその子猫は自分達が公園で見つけ、一度は保護しようとし、そして飼い主になってくれると笑顔で言った人に渡した子猫と同じなのではないかと私達は疑った。疑い、己を責め、そして二人ともそれを大人に言う事は出来なかった。
 そう、あの時もこの公園だった。そして、古ぼけたキャリーバッグ。
 キャリーバッグ。目の前のものと同じ。
 私は息を飲んだ。
 でもこの子猫はあの時の子じゃない。絶対に違う。
 そして、彼女は人通りの少ない暗くなった公園で、どうしてわざわざ「この子を他の人に渡さないで」と言うのだろう。
「お姉ちゃんなら、この子に痛い事しないでしょう? ごはんもちゃんとあげて、可愛がってくれるでしょう?」
 舞い散る雪をものともせずに無邪気にじゃれる子猫と、思い詰めた瞳で私を見上げる傷だらけの少女。
 その瞳が目の前で揺れる。雪の中で少女の輪郭が時折ぼやける。
 あの頃私が猫を飼えなかったのはダイスケがいたから。猫が大嫌いだった雑種の中型犬。でも、あの子猫を助けてあげられなかったのはダイスケのせいじゃない。すっかり信じてあの男の人に渡した私達のせいだ。キャリーバッグは覚えているのに、あの男の顔はもう覚えていない。残ったのは、自分達の罪を知られるのが怖くて誰にも言えなかった臆病で卑怯な子供達。
 あの子の命は助けてあげられなかったけれど、この子の命を救うことはできる。せめて目の前にいるこの子を助けてあげたい。
 それが多分、私の義務だ。
 私は子猫を抱き締めたまま片手を伸ばし、目の前に立つ少女の髪に積もった雪を優しくはらった。
「大丈夫、この子は私が連れて帰るよ」
「お願い」
 私は安堵したような彼女の傷だらけの手を取った。
「あなたも来る?」
 彼女は目を見開いた。思いもよらぬ事を言われ、驚いて私を見返す。
 私は微笑んで、彼女の肩からも雪をはらった。
「一緒においで」
「……いいの?」
 きらりと彼女の瞳が光る。
(ここにいたら死んじゃう)
 この公園にいたらまた虐待の末に動物を殺す人が来ると、彼女が思うのは当然だった。
「うん、うちにおいで」
 あの時あなたが受けられなかったものを、今からでもいいのなら私があげよう。ううん、そうじゃない。私が贖罪として何かしたいだけかもしれない。
 目の前で、少女が満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう」
 金色の瞳。
 ふわりと浮き上がってくるりと回る。そこには、あの時の子猫の姿があった。
 にぃ。
 嬉しそうに鳴いて、子猫の姿は光となって消えた。そして、空から降る雪に混じって小さな星が一つ、ゆっくり下りて来ると私の手のひらの上に舞い降りて光った。

*     *     *

 ふと気付くと、私は自分の部屋にいた。机の前でうたたねをしてしまったらしい。目の前にあるパソコンのモニタ画面はスクリーンセーバーとなり、仔犬が歩いてぺたぺたと画面を足跡で真っ黒に塗り替える作業を繰り返していた。
 私はしばらくその足跡を見つめ、それから立ち上がった。
 公園に行かなければ。
 胸騒ぎがする。ただの夢ならそれでいい、無駄足でも行かなければならないと誰かに言われているような気がする。でもきっとそれは私の声だ。
 時計を見ると夜の十一時。こんな時間に雪の中に置かれたら死んでしまう。
 コートを着込み、マフラーを巻くと家を出た。
 玄関のドアを開けた途端、雪など降っていないのに気付く。雪が降っていたのは夢の中だけだ。部屋の窓は夜で雨戸を閉めていたから外は見えない。そう、それに、確かに夜帰ってくる時には雪は降っていなかった。
 澄みきった冬の空は、雪の代わりに降るような星がまたたいている。
 雪が降っていなくても気温が低いのに変わりはない。私は走って公園に向かった。
 白い息を吐きながら、毎日その入口の前を通る公園を目指す。ダイスケがいた頃は一緒に散歩していた公園は、今の私には行く理由のない場所になっていた。前を通るだけとなっていたその公園の入口、街灯の明かりが届くところに段ボール箱が置かれているのが見えた。
 私は駆け寄り、その蓋を開ける。
 全ては夢だった。
 何もかも夢の中のこと。
 けれど、そこには確かに小さな命がいた。
 段ボール箱の中、タオルにくるまった一匹の子猫。生まれたてという訳ではないけれど、生後二か月は経っていないだろう。夢の中で見た子猫よりは成長している子だった。これならドライフードでいけるかもしれない。ここまで親猫と共に育てておいて捨てるなんて、よくもこんなことが出来るものだ。
 子猫が入れられているのは古びたキャリーバッグではないし、全てが夢の通りではない。
 夢の中の子猫は何色だったのかどうしても思い出せないけれど、この子猫は柔らかな黒い毛並みだった。暗いのでほとんど真っ黒に近いけれど黒トラの毛色と、闇に光るグリーン・アイ。
 捨てられて間もないのかもしれない。お湯の入ったペットボトルが中に一緒に入っていたがまだぬくもりがある。そんな心配をするならこんな時間に置かずに人の目につく日中に捨てればいいのに。夜では誰も見つけてくれないだろう。いくら捨てるところを見られたくなくとも、これはあんまりだ。
「うちにおいで。ね」
 抱き上げてマフラーにくるむとぬくもりが恋しかったのか身体をすり寄せてくる。
 その時、きらりと目の前に小さな光が現れた。夢の中、手のひらの上で光った彼女の星のように。
 そしてゆっくりと、舞散る雪のように下りてくると、子猫の首の後ろあたりに触れて──消えた。
 今のは……。
 目を見開いた私の腕の中で、マフラーに顔を埋めていた子猫が顔を上げた。
 捨てられるまではそれなりに可愛がられていたのかもしれない。人懐こくミャアと鳴いて私を見上げたその瞳。
 たった今見た時はグリーンだったその両眼の、片方が金色に輝いた。
「あ……」
 私は言葉を失う。
(あなたも来る?)
 嬉しそうに笑った彼女の目は金色だった。
 彼女もここにいる。私の腕の中に。
 ずっと昔私が助けてあげられなかった子が、愛されず無残な死に方をした子が、今私の目の前にいた。新しい命と共に。
 ダイスケ、もういいよね? 私が家に猫を迎えても。
 私は公園の隅にあるゴミ箱の脇にペットボトルを置き、段ボールをゴミ箱に放り込むと、早く子猫を温めてあげるために帰路を急いだ。
 冷たく澄んだ空気から守るために子猫を抱き締める私の頭上には、日頃は見えない無数の星が輝いていた。その中の一つは、今この腕の中にある。
 助けてあげられなかった私を頼ってくれてありがとう。私にチャンスをくれてありがとう。
 救われたのは私の方だ。子供の頃の私。
 きっと彼女はもう、私の前には出て来ない。この子の身体は彼女のものではないから。
 それでも、彼女はそこにいる。
 二つの魂をその身に宿した子猫に、私は「ダブル」という名前を付けた。


 お帰りダブル、ここがあなたの帰るおうちだよ。

END      
(2007.1.7)



覆面作家企画2 覆面作家企画2」参加作品です。
 あとがきはこちら(ブログ)


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