鬼の系譜

−1−

 森があった。
 隣国とディルバとを隔てるティノム山脈を背後に頂いた、ディルバの貴族が所有する森である。
 その一隅。
 夕闇の中、立ち枯れた大木がみしりと揺れた。
 その白樫の根元から少し離れて二つの墓が並んでいる。
 一組の夫婦が近くに葬られたその日からこの木は徐々に樹勢が弱まってきたようだったが、今はもうその姿を残したまま成長するのをやめてしまったように見えた。
 薄暗く人気のないその場所で、それが揺れている。
 みしり、みしり。
 地面に亀裂が入り、墓のある側の根が地面から抜ける。
 やがて、周囲の木々にもたれかかるようにして樫は倒れた。
 多少は距離があったため、二つの墓は何事も無かったように立っている。
 墓の背後に出来た大きな穴、その側面から底へばらばらと土が崩れ落ち、そして──

 ぼこり。

 白いものが土の中から現れた。
 ざわざわと周囲の木々が枝葉を鳴らす。
 それが呪詛であったか祝福であったのか、知るのは森の木々だけであったろう。
 穴の中で周囲よりも一層濃くなった闇に浮かび上がる、土にまみれた白い腕。
 血の通った、生きているものの腕である。それが土の中から突き出し、空を掴んだ。
 丸みのある小さな手の先には、緑がかった色の鋭く尖った爪がある。
 そしてさらにもう一方の手が土の中から現れ、穴の壁に両手を掛けると力を込めて全身を土の中から一気に引き出し、穴の底に転がり落ちた。
 さらさらと木々が歌う。
 一本の樫が立っていたその穴には、今や一人の赤子が踞っていた。
 赤子の裸の肌は白く、髪は木々の葉を写し取ったような深い緑色だった。
 その姿形だけは人間の子供のものだったが、その髪は緑、そして今まで土の中にいた彼には夜の近付いた薄暗さでさえも眩しいというようにゆっくりと開いたその瞳も緑色で、とても人間とは思われなかった。
 目が慣れてくると、赤子は穴をよじ上ろうとし始めた。
 だが穴は深く、土はもろく崩れて彼一人ではとても地上に上る事は出来そうもない。業を煮やした赤子が怒りの声を上げた時、するりとその身体に巻きついたものがあった。
 近くの木の幹を這っていた蔦が数本穴の底に伸びてきて、彼をすくい上げたのだった。
 数本の蔦が細心の注意を払った様子で赤子を穴の中から引き上げ、そっと地面に下ろした。そして巻きついていた蔦は彼を離すと、その髪を優しく撫でるように触れてからゆらゆらと元の樹木に戻っていった。
 赤子はまだ四つ足で這う方が楽であるらしく、一旦は蔦に掴まって立ったものの、すぐに両手を地につけた。
 彼は辺りを見渡し、他の樹木に斜めに倒れ掛かっている白樫を見上げると呟くように鳴いた。
「アー……」
 それから、彼はさらさらという葉擦れに導かれるように森の奥へと這い進んで行った。
 赤子は森の闇の中に消え、その存在を人間が知ったのは何年も後の事である。
 言葉を持たず、人間の持ち得ぬ色彩を纏ったその子供はただ、「獣」とだけ呼ばれる事となった。
 この森の一つの歴史はここから始まる。


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「深い緑の底で」終わってないのに、ちょこっと書き始めてしまいました。
でも向こうが終わるまで、これの続きを書くのはやめておこうかな。
こちらはもう少し短いです(予定)。はい。

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