緋 天

 久しぶりの暗域だった。
 ライアはアレクスが母親の実家に行っている間リョオと共にアストライアの所に待機し、アレクスが戻ってくるともう一晩だけ世話になってからそこを後にした。
 妹のライムとリョオ、そしてアレクスとの四人で過ごした灰域の旅は終わりを告げた。
 ライムは兄のガイアと共に家に帰って行き、リョオはアストライアの屋敷に元通りおさまり、そして自分はアレクスとその新しい馬と一緒にアレクスの住処に向かっている。
 灰域で珍しくも短く切られたアレクスの黒髪は、その後結局鋏の入れられる事がなかったために、伸びるにまかせて再び肩にかかるようになっていた。だが今はライアに合わせてマントのフードを被っているのでそれは見えない。ライアも暗域に戻ってから一度も髪の色を変えていないので、銀の髪が見えないようにフードを被っている。
 そして二人の前になったり後ろになったりしながらアルクトゥルスの子供のヴァルカンが荷物を両脇にさげて歩いていた。この馬も変わっている。一年前より大きくなったヴァルカンは身体は黒く、たてがみと尾は純白だ。両親は白くなどないのにどういう遺伝子の悪戯なのか。何となく自分と似ている、とライアは思った。
 夕闇が迫り、アレクスが野営に選んだのは川の近くで何本かの樹木の生えたところだった。二人のマントをテントがわりに木の枝に広げて掛け、荷物の中の大きな布を地面に敷く。適当に枯れ枝を集めると火をつけた。
 野外でのことはアレクスに任せたほうがうまくいく。手際よく取り出されてくる食べ物をライアはぼんやりと眺めていた。リョオが持たせてくれたもので食事を済ませると、少しは働こうという気持ちが起きてきたのでライアはお湯を沸かして香草でお茶を入れた。
「珍しいな」
 アレクスが皮肉る。辺りが暗くなった中で、アレクスの黒髪が炎に浮かび上がっていた。羨むことはしないが、やはりそれは美しかった。どこまでも黒、漆黒と闇。
「たまにはね」
 ライアは笑った。それから尋ねる。
「帰ったら、どうする?」
「どうするって?」
 アレクスは木製のカップに口をつけた。
「生きる目的って何なんだろうな」
 灰域よりも何よりも、暗域を選んだ。灰域は彼の生き、生活するべき場所ではない。
 灰域というそこは彼が生まれてからどれだけ長くいたところだったとしても、仮の宿にしか過ぎぬものなのだということが今回の旅で実感させられた。そして全て切り捨ててきたのだ。だがそれから後、何を目的に生きればいいのかが今はまだ掴めない。
「さあ、な」
 気のない返事が戻ってきた。多少失望させられる。が、それからアレクスは続けた。
「考える時間は腐るほどあるぜ」
 そうだった。当分はどこにも行かないし、何も起こらない筈だ。考える時間は山ほどある。
「そうかもな」
 まあいいさ。ライアは思った。しばらくはこのままでいられるのだから。
 川の冷たい流れで幾つかの食器を洗っていると、少し離れたところにいたヴァルカンが戻ってきてアレクスのところで一度立ち止まった後、ライアの傍らに来て上流の方を見つめた。
 人だ。振り向くと、アレクスはとっくにその気配に気付いていたようだった。来るのは一人……女だ。アレクスは自分では対応しないことに決めたらしく、座ったまま、立てた片膝に肘をついてそっぽを向いている。
 女は自分に剣を向けるために来たのだろうか。この髪の色が見えないはずはない。マントで陰になる位置のアレクスならともかく、川岸にいる自分の、炎に照らされた銀髪が見えないはずはないのだ。
 女と自分の間に守るように立ったヴァルカンがなんだかおかしい。お前は御主人様でなくてもかばうつもりなのか?
「あの……」
 間近にやって来た女は不思議なことに敵意がなかった。
 炎に映し出されたのは、赤い髪。
 肩の下まで伸びた柔らかそうな赤い髪、壊れそうな細い身体と肩から首の華奢なラインに薄茶の布の旅姿。ひどく脆そうな印象の女だ。
「ご一緒させていただいても、よろしいでしょうか」
 ためらいもなくライアを見つめるとそういった。


「えーと……」
 拍子抜けしてライアは返事に詰まった。振り返り、視線でアレクスに助けを求める。
 アレクスは女をじっと眺めた。無感動な視線。女の何を見、何を感じたものかアレクスは言った。
「お前がよけりゃそうすれば。俺はもう寝る。好きにしろ」
 そうして、顔をそむけると横になってしまった。
 他人の気配があるかぎり、この男が眠ったりする筈がない事は良く知っていたが、女に知らせるようなことでもない。どんなに穏やかに呼吸していても彼が眠っているわけではないのだということを、ライアは知っていた。それでも、腰から外した剣が確実に手の届くところにあることくらいは女の目にも触れただろう。服の内に短剣を隠し持ってもいるのは昔からだ。
「この辺も得体の知れない獣が出るし物騒だから、あんたさえいいなら俺は構わないけど……」
 銀の妖魔を初めて目の前にして大きな反応を示さない女に興味がわいた。だが、ライアよりも女のほうがより多くライアに対して興味を持っていたようだ。
「ありがとう」
 にこりと笑ったその顔は、印象としては悪くなかった。元々ライアは暗域の住人に関して言えば、数少ない自分を拒絶しない相手には随分と甘い見方をする性質があるのだ。
「食事はしたの?」
「ええ、お構いなく。元々あまり食べないんです」
 確かに痩せてほっそりしている。女一人で動き回っているのが向いているようには見えない。だからこうして先々で他人と合流しているのだろうか。だが、あまりこのメンバーは同席して楽しいとも思われないのだが。
「本当に俺が一緒でいいわけ?」
 からかうようにライアは念を押した。
「どうして?」
 洗った食器を手早く袋に詰め込んで荷物の横に置くと焚き火のそばに腰をおろした。
「気付いてないのか? 俺が妖魔だって」
 銀髪でも不思議のない他の種族の魔物ではない。暗域唯一の存在である銀の妖魔だ。
「わかってるわ。だから? いいじゃない、混じりけのない綺麗な金や銀の髪は私の憧れだった」
 隣に座った彼女の赤い髪は炎に透けて、それ自体が輝きを持った何かのようにも見えた。それはそれなりの美しさがあるのだと、いつまでも気付くことが出来ないのは不幸な事だ。
「でも実際そうだったら、やっぱり困るさ」
 ライアは呟いて、話題を変えた。
「で、こんなとこで何してんの。どっか行く途中?」
「え? ……ええ、まあ」
 家はなく、一人であちこちへ行くのが好きなのだと彼女は言った。ライア自身も灰域から戻ったばかりであったし、灰域であった話などを少し話したりして夜が更け、他人が混ざり込んだにしては平和な時間が過ぎていった。それからライアはアレクスの隣に、そして彼女は少し離れたその隣に横になって眠りについた。小さく残った焚き火だけが三人を照らし、川面に光を投げかけていた。


 そして───ライアが眠りにつき、平和な寝息を立てはじめた頃、音もなく身を起こした者があった。それまで一瞬たりとも眠ってはいなかったアレクスである。彼はライアと違って、初対面の女がライアにどんな反応も示さないことに素直に納得などしなかったのだ。
「どういうつもりだ?」
 女は背を向けたまま身じろぎもしない。
「起きてるのはわかってるんだ」
「……何なの?」
 声だけが返ってきた。
「赤い輝天が銀の妖魔に何の用だと聞いてるんだ」
 ぴくりと動いたその身体を女は起き上がらせた。
「さすがに、銀魔と平気で一緒にいるだけあるのね」
 羨望をもって、眠っているライアの銀色の髪に愛しげに触れると、立ち上がった。
「行きましょ」
 そこにいたのはただの旅の女ではなく、赤い髪の堕天だった。魔性に染まり堕落した輝天。
「………」
 アレクスも立ち上がると、何か言いたそうに見つめるヴァルカンの方にちらりと目を向け、その場にいるように子馬の足元を指し示すと川沿いに歩きだした。
「ただ、少しのあいだ見ていたかっただけよ。綺麗な銀色の髪をね」
 女は言った。赤い髪が川の流れと共に吹く穏やかな風に揺れるのを気にするように片手で押さえた。
「でも良くわかったじゃない? 私が緋天だったって」
 自らを嘲るような力ない笑みをアレクスに向けた。
「緋天……赤い輝天のことか」
「そうよ。緋色の輝天。暗域じゃ赤い輝天と言うのね。銀魔を銀の妖魔と言うように」
「お前が生粋の魔物じゃないことくらい、見りゃわかる。その髪が何にも染められていないこともな。普通の堕天が赤い髪の訳がないだろう」
「そうね、ただの堕天じゃないから……緋色の堕天なのだから」
 赤い髪、闇に染まった黒い翼、暗域ではライアよりも目立たぬであろうその色彩。
「暗域のほうが光域よりも暮らしやすいか?」
 アレクスの問いに、堕天の頬が屈辱に染まった。
 暗がりの中のこと、それがアレクスに見えようはずもなかったが、見えたとしても彼の知ったことではもちろんなかった。


 小さな人の話し声に、目が覚めた。
 見ると、両側に寝ているはずの二人がいない。
(何だかなあ。あれだけ徹底的に無視してたくせに)
 ライアは呆れて、再び目を閉じた。もっとも、耳のほうはどんなかすかな声も聞き取れるようにそばだたせていたのだが。女の声にはかすかな怒りが混じっている。
「ここでは金魔や銀魔は忌み嫌われて、そして金髪や銀髪の堕天は軽んじられる。でも私はいつだって金や銀の髪に憧れていた。ただ、それだけよ。他の理由なんて……」
「以前のお前と同じ立場にいても、奴はお前とは違う」
 アレクスは言った。あきらかに女が怯む。
「な…に、何よ。当たり前じゃない。緋天と銀魔じゃ全然違うわ」
 緋天……緋天。緋色の輝天。金髪が主流の輝天の中にあって、ありえない緋色の髪を持つ輝天。光域では暗域での銀の妖魔のように扱われるであろう異形の輝天だ。
 なんだ、そうか。ライアは納得し、そして何だか自分一人が馬鹿を見た気がして身体を丸めた。
「それでも似ていると思ったんだろ。だが赤い髪は暗域でなら異質ではないから、光域より居心地がいいだろう。闇堕ちとなった今ならな。お前は暗域に逃げてきたんだ。銀の妖魔には逃げ道はない」
「私だって好きでこんな世界にいるわけじゃないわ。好んで自分から堕ちてきたわけじゃない。無理やり暗域に引き込まれたのよ」
「そういう言い訳は立つわけか。それで?」
 アレクスの声は今やすっかり冷やかに変わり、同情のかけらもにじませてはいない。
「こんな世界は嫌いよ。悪賢い妖魔に出会ったりしなければ、私はまだ光域にいたわ!」
「なら、なぜ灰域に降りない」
「………!」
「暗域が嫌なら灰域に降りればいいだろう。それをしないのは暗域のほうが生活しやすいからだ。ここでは堕天の髪が金だろうと赤だろうと誰も気にしないし、赤い髪ならうまくすれば堕天だということさえ隠しおおせられる。ちょっとの我慢さえすれば、光域よりはるかに暮らしやすいからな」
「放っておいてよ! だからなんなの、あなたに関係ないじゃない」
 追い詰められた悲鳴の様な声が夜の闇に小さく響く。
「なら、銀の妖魔にも関わるな」
 ライアはじっとそれを聞いていた。川の流れる音と小さく燃える炎のパチパチという音の中、凛としたアレクスの声が言い放つのを目を閉じ、眠りをよそおって聞いていた。
「たとえ一時の接触でも、迷惑だ。身勝手な感傷で近付いて欲しくない。銀の妖魔は今、暗域に一人しかいない。それでもお前が暗域に逃げて来たように逃げる先はあいつにはないし、灰域にも奴は逃げないだろう」
 そうだ、灰域に降りることはあっても逃げ込むことは二度とないだろう。一度目の逃亡が彼の意思ではなく、生まれたばかりの彼の生命を守るために両親が下した決断だったとしても、やはりあれは暗域からの逃亡だった。
「お前とは違う、あいつは強い。お前は卑怯者だ」
 断罪にも似た言葉が重く落ちた。ライアはおそらく、少し彼女に同情していたかもしれない。彼女はただ快適を目指しただけだ。暗域にいる事で誰かに迷惑を掛けているわけでもないのに、そこまで責めることはライアには出来ない。だが、アレクスには許すことが出来ないのだ。
 開き直って暮らしているならまだしも、一つの地に住み着くこともせず未だ金銀の髪にこだわりを持ち続けるその心根がアレクスには許すことが出来ない。誰もがお前の様に強い訳ではないのだと、ライアは彼に教えてやりたかった。彼の要求にどうしても応えられない者もいるのだということを。
「………」
 女が駆けてきて自分の荷物を引っ掴み、魔性の色に染まった翼で飛び去るまでライアはずっと横になったまま目を瞑っていた。
 アレクスはゆっくりと戻ってくると、土をかけて火を消し、ライアの傍らに腰をおろした。ライアが目覚めていることはお見通しらしい。
「余計な事だったか?」
 目を開けると、片手をついてアレクスが見下ろしていた。どうせ明日の朝には別れた女だ、放っておいてもよかった。だがもう、起きたことは起きたことだ。過ぎた事をどうこう言っても始まらない。
「いや…別に」
 アレクスが黙っていれば何も気付かずにいたと礼を言うつもりもなかったが、かといって責めるつもりもまったくなく、強いて言えばもうどうでもいいということになるのだろう。それよりもライアの胸には一つの言葉が残っていた。
(あいつは強い)
(強い)
 そのような言葉をアレクスの口から聞かされたことはなかった。今でも多分、面と向かってそんな台詞を吐くことは彼は決してしないだろう。ライアはじっとアレクスを見つめた。
「……なんだよ」
 ライアは小さく笑って首を振った。おそらく、自分はとても幸運なのだろう。この男に認められているということは。そう、とても自分はラッキーだという気持ちがする。
「おやすみ」
「ああ」
 彼女に同情はするけれど自業自得と言えないこともなく、どのみち彼女はもう緋天ではないのだから気にしてやるいわれもない。
 緋天……飛天。白い翼を闇に染め、今はもう魔性の一員。その美しい名を持つ輝天はもうどこにもいなかった。

END      




 結構仲良しさんな二人。
 この数日後の話もあるのですが、今のこの数話しか載せていない状態でそれを載せると誤解を受けかねない(考えすぎ?)ところもあるので、これはもう少し後に載せようかなと思っています。



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