どの道を通って帰り着いたのかは覚えていなかった。
 乾いた涙の跡を拭いもせず走り続けた。
 家にたどり着けばきっと優しい母の笑顔が待っている。
「どんな遠くまで遊びに行っていたんだ?」と、父が聞いてくれるに違いない。
 あれは多分、悪い夢だったのだ。
 幼い少年は夜も更けた闇の中を、転んだり草で切ったりして傷だらけになった足で走り続けていた。汗が目に入って視界が霞んでいた。
 己という意識さえ消えかけ、自分が空を飛べることさえ忘れていた。
 翼など、失ったも同じことだった。

(馬鹿だな)
 自分の家に着き、馬小屋の入口に崩れるようにして倒れ込んだ彼は心の内で呟いた。
(自分の目の前で父さんも母さんも死んだのに……殺されたのに、走ってるうちに忘れたっていうのか)
 走り続けていた。
 忌まわしいあの場所、両親の死んだあの場所から離れるために、休みもせずに走った。来る時は馬に乗ってきた距離を、七歳の子供が一気に走れる筈はなかった。それを、離れたい、帰りたい一心で足を動かし続けた。
 足は鉛のように重くなり、胸の鼓動はこれ以上速くはなれないくらい速い。呼吸も乱れに乱れて頭ががんがんする。もう、動けない。
 他人の侵入を防ぐ、母が張った結界を解かなければ家に入れない。だがその力が今の彼にはなかった。指一本だってもう動かない。
 もうたどり着いたんだ。もういい。明日………
 暖かい藁が目と鼻の先にあるのも頭になく、彼は意識が遠のくのにまかせた。
 意識が遠いまま走り続けるのに比べれば、それは固く冷たい床の上でなく、お日様の匂いのするふかふかのベッドで眠るのも同然だった。

         獣化、あるいは黒い獣


 アレクスは森の中の大きな木の根元、乾いた草を敷きつめた寝床に一人死んだように寝転がって、夜を待っていた。夜になれば、夜が訪れるくらい時間が経てば、体力も回復する。
 彼はもう数日家に戻っていなかった。無人の彼の白い部屋の中は閑散としていた。机の上にはずたずたに切り裂かれた本が無残にも短剣で縫い付けられたまま残されている。開かれたそのページには、三つ首の黒い熊の魔獣の姿が見て取れる。
 もう、白い部屋は彼に必要がなかった。既に彼の心がその部屋に相応しくなかった。自分の心はもう、この部屋のように真っ白ではない。むしろ似合うのは黒い部屋だ。だが、部屋そのもの、家そのものが今は必要のないものだった。
 アレクスは早く大人になりたかった。こんな子供では、いつまで経っても両親を殺したあの獣を討ち取ることができない。
 姿だけ、外見だけ大人になるのはとても簡単なこと。たった一つの呪文さえ必要ない、その意志さえあれば。
 けれど、それは見せ掛けに過ぎないことも彼は知っていたのだった。
 強くなるには己が努力するしかない。毎日の鍛練と鋼の意志、そして、気が遠くなるような長い年月。
 彼は自分の影を相手に倒れるまで闘っていた。
 彼と同じ形を持った己と同じ力量の黒い影。最後には剣を捨ててナイフを相手に突き立てようと互いに取っ組み合って森の中を転がっていた。
 相手の影で出来た剣が己の胸を貫いたのは覚えている。気も狂わんばかりの痛みが本物の傷は持たず、これで死ぬことはないとも知っていた。自分の持っていた短剣は影の腕に刺さった。疲れを知らぬ己の影。勝たなければ先に進めない。痛みに気を失って、気がついた時には影は己の体の下に戻っている、その時に彼を襲うたとえようのない無力感。
 痛みの名残を引きずって、疼く胸を押さえながら家に戻る。今は、少しでも自分を鍛えて強くなるだけ。他には何もすることはない。死にさえしなければ、後は何がどうなろうと知ったことではなかった。
 毎日毎日、家を出てはぼろぼろの体を引きずって戻ってくる。自分の他には誰もいない家で休むと、夜中の森にまた一人出掛けてゆく。
 家と森との往復。いつしか、家に戻らなくなった。
 草の実や、彼の父が生前森に仕掛けた罠を探してはそれに時折掛かっている獣を殺して飢えを満たした。食べられればそれでいい。生暖かい血の味が耐えられないほど嫌いなわけでもないし、その場で火を起こすことなど造作もないこと。調理をしに家に戻るという行動にどれほどの意味があるだろう。雨の降らない季節だったことが余計に彼を家から遠ざけた。
 泉で水を飲み、疲れを癒す薬草をちぎり取っては口に入れる。殺した獣から剥いだ毛皮を寝床に置いて居心地を良くしようとしたが、血なまぐさくうまくいかなかった。
 懐深く包み込むような森の中で、幼かった彼のまなざしは日毎に鋭く、野性味を帯びていった。森は彼を包んでくれたが、同時に闇をも飲み込んでその闇で彼を押さえつけ、縛りつけた。森の中を自由に動き回れるのは獣だけだ。それも強い獣だけ。弱いものは森の、そして森に生きる生き物の贄となる。
 長いこと誰とも口をきかなかった。自分自身に語る言葉は声には出されない。一度旅の商人が通ったが、泥まみれの彼はあまりにも森に同化していたため、気付きもしなかった。ただ、呟いただけだ。
「やれやれ、解き放たれているのに逃げもしない馬とは……。気性があんなに荒くなけりゃ高く売れたんだが」
 久しぶりに聞いた人の声だった。
 馬? それはどんな動物だったろう?
 食べることはできただろうか。口にしたことはあったか?
 ああ、だめだ。たまには家に戻ってまともに物を食べないと、頭がうまく働かない。家に帰る方向はどちらだったか? まあいい。どうせどこかに向かえば森の外に出る。出れば、そこがどこなのかわかるだろう。
 馬。馬に乗る。馬に乗った。そうだ、自分は馬を持っていた。まだ生まれて間もない真っ黒な子馬、両親と共に殺された雌馬の子供。
「残忍」
 彼は声に出して言ってみた。
 声の出し方を忘れてしまったかのように、ひどく声が出にくい。なんだか、最後に自分の声を聞いたのが遠い昔の様に思える。
 残忍にならなければならないと、そう思っていた。獣のように残酷に。自分は甘すぎると、そう思って彼は森に来たのだった。自分に対しても厳しくできるだけ厳しくしてみよう、甘えていては強くなれない。
 そう。子馬の名前は<残忍>、ディルブランだった。


 不屈の魂を持つ獣となるがいい。
 どこかで彼はそう思っていた。頼る者とてないお前、全てをはね返し、牙をむく獰猛な獣に変われ。
 人を捨てても誰も困りはしない。人である自分を思い出すのは獣として森を支配してからでいい。獣の道を究めてみせろ、それがお前の力となる。
 彼を待つ獣のことなど、だから彼は思い出しもしなかった。思い出せば引き出そうとした獣性が再び息をひそめ、眠りについて、獣の所有者としての人である自分が戻ってくることが判っていた。
 だがもう遅い。彼は思い出してしまった。
 己と同じ境遇の不幸な子馬、世話もしてくれずに放り出した幼い主を待っている忠実な黒い獣のことを。
 帰ろう。
 ぼんやりと彼は思った。
 ほんの小さなきっかけで人の心が戻ってくる。所詮、人として育った者は獣にはなれないのだ。それは獣になりたかった彼にとって、敗北にも近い思いだった。
 胸の奥で牙をむいた獣が目覚めかけるのを感じた、それだけ。それはもう深い眠りの中に落ちて、鋭い爪も繰り出されはしない。
 だが、たった一人森で過ごした時間が、彼に研ぎ澄まされた感覚と、相手を射殺すような鋭い視線を与えたことに彼は気付いていなかった、今はまだ。
 小さな戦士が作られていく、それが始まりだった。


 夕方の薄闇の中、アレクスは泉に向かった。
 朝が来る前、人目に付かぬ夜中のうちに家に戻ろうと思ったためだ。家に入る前にとにかく少しは身体を綺麗にしなければならないだろう。
 泉の上方の木々の葉は春だということもあって豊かに繁り、月もまだ高く昇らぬこの時間はいつも暗闇の何処かに何かが息をひそめているように感じられる。
 彼に害をなすモノ共は何もいないと知っているからこそ、彼は平気でいられるのだった。
 掌に水を汲んで一口飲んだあと、彼は裂け目だらけの服のまま水に入った。水の冷たさに身震いを一つして、水に潜る。髪の中にまでひたひたと冷たい水が侵入してくる。それは決して不快ではなかった。
 水面から顔を出すと、最初は着たまま洗ってしまおうかと思っていた服がやはり邪魔になり、張りついてくるのを苦労して脱ぐと泥と自身の血で汚れたそれをごしごし洗った。どうせもうぼろぼろで捨てるような代物だから染みが落ちなくとも構わないが、とにかく少しましな状態にしなければ。ともかくもなんとかこびりついたものを落とすと、ぎゅっと絞って地面に突き立てた剣に引っ掛けた。
 これで水が濁っただろうか?
 暗くて良く見えないが、構うものか。アレクスは思った。後は身体を洗うだけだ。それに、たえず綺麗な水が湧き出ている。すぐに元に戻るだろう。
 アレクスは一番新しい、まだ血が固まってこびりついている腕の傷を洗った。
 とっくに血は止まっている。そして、その他の傷はほとんど消えかけていた。彼は普通と比べて傷の治りが早いのだ。だからこそ平気で無茶な事も出来る。それにどの道彼の影は、痛みをこそ彼に与えるが本当の傷を彼の身体に付けることはない。彼の身体に付いた傷は全て、獣とやり合った時の傷か、あるいは己の影と闘ったときに木の枝などで作った傷だった。
 そうして改めて己の腕を見ると、森に居つく前よりもやはり痩せたかなという感じがする。ふん、と思う。だから何だというんだ? もう少し位なら痩せても少しも困らない。
 成長途上の幼い身体を酷使する事はその成長にも影響を与えかねず、勿論良いわけがなかったが当人にそのようなことが判るはずもなく、アレクスは子供らしくふっくらしていた頬の線が細くなって前にも増して凛とした雰囲気になったその顔にばしゃっと水を掛けた。
 髪の中に入り込んだ細かな土を洗い落とす。彼の背まで伸びた黒髪はみるみるうちに艶やかさを取り戻した。両親共に真っ直ぐな黒髪を持ち、父は短く切っていたが母はやはり手入れした美しい髪を腰まで伸ばしていた。彼自身不満にも不思議にも思わなかったが、彼の髪が長いのはどうも両親の趣味らしかった。
 もっとも、その後も長くそれが彼のスタイルとして定着していくことを考えると、彼自身の趣向もそちらに向いていたとしか考えようもなかったが。
 絡まった髪を指先でほどいて、水から上がる。軽く髪を絞って濡れたまま服に手を伸ばしたその時、何かが近づいてくる気配があった。
 服の上から剣の柄を握り、息をひそめてアレクスは気配の主を待った。
 しんとした森の中、微かな足音が近づいてくる。
 奇怪な鳴き声を上げて梢から鳥が飛び立った。灰色の羽が一枚、ゆらゆらと落ちてくる。それが地面に落ちたその時、「それ」は木の陰から姿を現した。
「お前は───」
 アレクスは柄から手を放し、服を取り上げると、やって来た獣を見つめた。
 黒いたてがみ。薄闇の中にさえくっきりと闇色に浮かび上がる漆黒のその身体。
 ゆっくりとそれはやって来て、彼の傍らで止まると頭を下げて水を飲んだ。
「ディルブラン」
 黒炭の瞳をもったその獣は紛れもなく、彼の黒い子馬だった。
 子馬はつぶらな瞳で彼を見て、彼が服を着るのをじっと待っていた。今までずっと森に足を踏み入れることなく、そして森を出ようと彼が思った丁度その日に彼の元にやって来たのは、何か感じるものがあったのだろうか。それは、彼とこの子馬の間に何らかの絆があるのだと、そう考えていいのだろうか。いや、多分そうなのだろう。
「悪かったな、ほったらかして」
 いとも簡単に滑り出てくる言葉。それはもう、かつて彼が使っていた言葉ではなかった。それまでの彼ならば当然のごとく、幼い少年らしく「ごめんね」と言っていた筈だった。
 両親の死とそれに立ち向かう彼の覚悟、そして森の中で成長した彼の心が彼の話す言葉さえも変えてしまったのだ。それは彼自身の意志でもあったが、自然の流れでもあった。
 ディルブランは濡れた彼の腕に顔をそっとすりつけた後、彼の命令を待っていた。
「帰るぞ」
 アレクスは森で体験したどんな苦痛をも感じさせない声で、彼の馬を促した。


「お前も、親の仇を討ちたいのか?」
 びしょ濡れのまま、彼は干し草の中にもぐり込むと、傍らに来たディルブランを見上げた。
 子馬は賢そうな黒い瞳を彼に向けるのみ。だが、それでも思いは彼と同じであったのだろう。そっと彼の身体の上にさらに干し草をのせた。
 親を亡くしたものたちが共に眠りにつく小さな馬小屋で、中を覗き込んだ者がいたならば一体何が見えただろうか。
 そこにはただ、二匹の黒い獣が見えるだけだったかも、しれない。

END      




 子供の頃は彼も可愛かったんだよ……。
 今では見る影もない(苦笑)。


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