「少女」


 それらの絵は屋根裏にしまいこまれ、老人が死ぬまで長い間人の目に触れることがなかった。


 エディはそれらの連作を、良く見えるように画廊の一番奥の壁に並べた。今回の祖父の遺作展はこの街で最後だからだ。持ち主となる人物が現れてくれるといいのだが。
「連作 少女」というこの四枚の油絵は、祖父の生前は発表されていなかった。
「花」「猫」「夜」「午睡」というそれぞれの絵には同じ一人の少女が描かれており、画家である祖父の残したものの中で唯一それだけがエディの相続しないものだった。
 遺言には、四枚の「少女」の絵に関する全ての権利をそのモデルのものとする旨が書かれていた。その当のモデルが何処にいるのか判らないため、「少女」はまだ今はエディの元にある。しかし祖父の死後十年を経過した後もモデルが見つからなかった場合は絵を焼却処分するようにとも合わせて書いてあったのだった。
 今年は祖父の死後六年目だ。早く「彼女」を見つけなければ絵を焼き捨てることになる。だが祖父は彼女の名前すら書き残してはくれなかった。手掛かりはただ、この四枚の絵だけだった。
 カールした黒髪の七、八歳の少女。青い目のひどく綺麗な女の子だ。おそらく今は二十代後半だろう。どうして祖父がこれを発表せずに大事にしまい込んでいたのかは判らない。発表していれば彼の評価ももっと違ったものになっていたに違いないのだが。
 それは間違いなく彼の絵の中で一番の作品だった。
 これがそのまま四年後に焼かれてしまったら、幻の作品として後々まで名前が残るだろう。だが、画題のみ残っても何になる? このいきいきと描かれた愛らしい少女の姿が残らねば何の意味もない。
 そんなことを考える午後、背が高く、腰まで黒髪を伸ばした女性が入ってきた。特に変わった様子はないのに妙に目を引く。極上の美女だという事もあるが「少女」と少し、似ているからかもしれない。ハイヒールがカツンと音を立てた。
 膝上までスリットの入った、長めのグレーのタイトスカートに、かちっとした感じの白いシャツを着ている。プラチナのチョーカーから下がった鎖が挑発的に胸元で光っていた。少しきつい印象の青い瞳は猫を思わせはしないだろうか? 白い肌に黒髪が良く映えている。
 彼女はまっすぐにエディのところにやってくると、この展示のことが書かれた小さな新聞記事をブルーグレーのマニキュアを塗った指先で取り出して見せた。
 記事の中程には小さく「少女」のモデルを探していることが書いてある。
「『少女』の連作を受け取りに参りました」


 思っていたよりも彼女は若かった。二十代後半かと思っていたが、この女性はどう見ても二十代前半だ。それとも、若く見えるだけか───どちらにしろ、かなり若い。
 彼女が「少女」本人だという証拠はどこにもなかったが、間違いないだろう。そんな奇妙な確信を抱かせる空気を身にまとっていた。そう、いかにも祖父が絵に描きたくなりそうな、とらえどころのない不可思議な雰囲気だ。
「あの人、いつ亡くなったの?」
 彼女は名乗りもせずに尋ねた。不思議に思いはしたが、名を知られたくないのかもしれない。それとも彼女にとってはその必要もないのか。もしかしたら、祖父でさえ知らなかったのかもしれないではないか。だとしたら今は聞いても無駄だった。
「六年前です。祖父はあまり有名だったわけではありませんし、知らないのも無理はありませんが」
 画廊の隅のテーブルで紅茶を入れながらエディは答えた。それを聞いて彼女はちょっと眉をあげた。
「お孫さん? 彼、身寄りはいなかったと思ったけど」
 追求する口調ではなく、ただの確認。よくよく彼女は内情を知っているらしい。やはりこれは本物に違いないかと思いながら彼は微笑んだ。
「ええ、戸籍上は養子です。知っている人はあまりいませんし、僕にとって彼は父というよりは祖父だったので、祖父で通しています」
「そうね、私にとってもおじいちゃんだったわ」
 そう言って彼女はにこりと笑った。きつい印象の目が優しくなって、ふわりとあたたかい笑みになった。あ、と思う。「花」の笑顔と同じだ。顔立ちの幼さは今ではもうないけれど。思わず彼も笑みを返していた。
「絵を描くのに夢中で結婚できなかったのよね、あの人。でも、子供が好きで」
「ええ」
 そうだ。
 そうだった。そして彼は自分を養子にしたのだ。
「私は彼にずっとついていてあげることが出来なかったけれど、あなたがいてくれたのね。ありがとう」
 それは多分、彼女の心からの言葉だった。こちらを見つめる青い瞳。長い睫毛が煙るようなほのかな灰色を帯びて、視線の邪魔をするのを防いでいた。まっすぐな、敬意のこもった瞳だ。そう、彼女も彼の孫とも言える存在だったのだ。孤独な画家の愛した小さな少女、彼女も老人を愛していた。
 エディは静かに首を振り、尋ねた。
「明後日に展示が終わるまで、あの絵をお渡しするのは待ってもらえますか?」
「もちろん。今すぐと言うほど無粋ではないつもりよ」
 また来ると言って彼女は帰っていった。


 実際、「少女」は不思議な絵だった。「花」で無邪気なところを見せた少女は「猫」で得体のしれない、考えの読めない不思議な顔になり、「夜」でまるで大人のような成熟した女の表情となって見る者に少女の年齢を疑わせる。だが「午睡」の中、芝生の上で無心に眠る少女はやはり、ただの小さな女の子なのだった。くるくるとイメージが変わる。
 この少女はある意味「女」を体現している。大人の女性を使って描いたならばリアルになり過ぎて臭みのつくところをあっさりと解決していた。だがこれは祖父の腕だけではなく、彼女に負うところも大きかっただろう。文句なく彼女は素晴らしい。
 だが「少女」は人の目から隠されていた。そのモデルの「少女」自身も。
 エディはその意味を考えたが、わかりそうもなかった。
 最終日、彼女は前とはまるで違う姿でやって来た。
 長い黒髪はまとめ、ジーンズにTシャツといういでたちで飾りは一切身に付けず、別人のようでもあったがそれもまた「少女」らしくはあった。
「こんにちは」
「やあ、梱包終わってますよ」
「どうもありがとう。何かサイン等の必要な書類はありますか?」
 抜け目のない人だ。エディは苦笑する。
「いいえ、『少女』に関するあらゆる権限は全てあなたのものです。僕があなたを『少女』と認めたのですから、それ以上の何も必要とはしません。『少女』をどうしようとあなたの自由です、永久に」
 それで良いのでしょう、おじいさん。
 エディはひそかに呟いた。しまい込まれた絵、見せるために描かれたのではない、彼と彼女の二人の絆。
「何も聞かないのね」
「僕はモデルの私生活を詮索するほど野暮ではないつもりですよ」
 彼女の口調を真似ると彼は笑った。彼女が自らの存在の証を人目に触れさせたくない理由が知りたくない訳ではなかったが、それはやはり余計なお世話というものだろう。自分は祖父ではないのだから。
「ありがとう」
 彼女は外で待っていた車に一緒に来た男性とともに絵を詰め込んだ。
「少女」を売るつもりはなく、自宅に飾るのだと言う。
「最後に、一つ聞いてもいいですか」
「何でしょう?」
「あなたの名前を……」
 彼女はちょっとびっくりしたような顔をした。今までずっと、彼がそれを聞かなかったことに初めて気がついたように。それから笑った。
「いい人ね」
 ミアというのよ。そう言って彼女はエディの頬に軽く口づけをして去っていった。
 明日には忘れてね、と。


「ガキの頃の後始末も大変だな」
 車を運転するのは兄のガイアだ。ライムは助手席に座って足を組んでいたが、梱包された絵をいとおしげに見つめながら呟いた。
「そうでもないわ」
 過去の思い出に浸るように目を閉じた。
「あたしにとって、おじいちゃんは彼しかいないんだもの」
 本当の祖父母には会ったことがない。銀の妖魔であるライアが生まれ、だが両親がライアを殺さなかったことで仲違いしたからだ。ライアを守るために祖父母と縁を切った───あるいは切られた両親や、原因となったライアを恨むつもりなどかけらもないが、それでも幼かった彼女に欲しいものはあったのだ。
「あの頃はあの頃で、また幸せだったわね」
 人間のふりをして生活していた幼い頃、魔性の芽生えに自己の矛盾はあったけれど、その生活が終わることは当分ないと思っていた。
「そうだな」
 もう二度と戻らない。父を失った今、あの日々は完全な形で甦ることはない。今が不幸だなどとは口が裂けても言うつもりはないが。
『私のちび魔女ちゃん。お前さんが本当の孫でないのが残念だよ。もしそうなら、こんなに早くどこかへ行ってしまうことはないのにな』
 別れを惜しむ老人に、彼に残された時間とは比べ物にならないだけの時間を所有していた彼女は明るく笑った。彼女は「ちび」でもなければ「魔女」でもなかったから少しばかりひっかかるところはあったのだけれど、彼はよくそういう呼び方で彼女を呼んでいた。
『大丈夫よ、また会えるし、子供は他にもいっぱいいるわ』
 一つ所に長く居つくことのできない灰域での生活、家族がいればそれでよかった。ひとときだけのもうひとりの家族、彼ももうこの世にはいない。
 不意にガイアの手が髪に触れた。運転中ゆえに前を向いたままだったが。
「そんな顔はするな。俺はまだここにいる」
「うん……ありがと」
 暗域に戻ったとき、「少女」は彼らの家に飾られることになるだろう。だが今は、厳重に包まれて人間の目に触れることはない。──永遠に。

END      



 ライムの出ている話がひとつもないのに気付いて慌てて探し出してきました。
 でも、この話と100の質問の彼女しか知らない方にはイメージ食い違って感じられるかも
しれませんね。ちょっとしんみりしておとなしめのライムです。
 でもいかにも本名っぽく名乗っておきながら偽名だし(笑)
 まあ正式にはライミアだからミアには違いない……。


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