黄昏の空

 闇を固めたような黒い鸚鵡おうむが飛んできたのは、晴れた夏の日の昼下がりのことだった。
 屋敷の敷地内まで入った鸚鵡はギャア、と一声鳴くとアストライアのいる執務室へと飛んで行き──そしてアストライアは手を止めた。
 ギャア、と漆黒の鸚鵡が窓の外で鳴いている。
「あれは……」
 立ち上がり、窓の方へ歩み寄って開けてやると、鸚鵡は中に入ってきて明かりの付いていないランプの上にとまった。
「アストライア」
 彼の方を向くと覚えのある男の声で鸚鵡は言った。ひどく懐かしい声だった。
「見届ケニ、来イ──」
 そして、ばさ、と一度羽ばたいた後に鸚鵡の姿は消え、一枚の紙がひらひらと床の上に落ちた。
「………」
 ゆっくりとアストライアはそれを拾った。
 席に戻り、しばらくの間それを見ながら何か考えていたが、やがて机の空いている所によけて竜の形の文鎮を上に乗せると、溜め息を一つついて仕事に戻った。

◆       ◆       ◆

「リュオス様」
 コンコンとドアをノックしてリーヤが部屋にやって来た。
「何?」
「アストライア様がお呼びだそうです」
「あ、今行く。あれ、ティーンも行くの?」
 リーヤの横に立つティーンの姿を見つける。
「ああ、一緒に呼ばれた」
 アストライアの補佐なのかリョオの教育係なのか既に区別の付かなくなって久しい、銀色の髪の人狼は頷いた。
「何だろ……。じゃ、行ってくるね」
 リーヤに声を掛けると執務室に向かった。
「質問。ティーン、リーヤの事素直におめでとうって言える?」
 歩きながらふと思いついて尋ねた。リーヤは身寄りもなく、行くところも無かったところをティーンに拾われた。ティーンを見つめる彼女の瞳に感謝や尊敬以上のものがこもっていた事も、ティーンがそれに応えなかった事も、屋敷の中にいる者は皆判っていたが、個人の問題に口出しをする者もいなかった。そして結局、リーヤを手に入れたのはリョオの年上の友人だった。
 もっとも、彼はリーヤの気持ちを手中にしたことで満足したらしく、リーヤも屋敷を出て行く気持ちはさらさらないため、近い将来に二人が結婚する、という見込みはほとんど無いに等しかった。
「言えるよ、もちろん。兄代わりとしてはもう少し子供でいて欲しかったけど、彼の情熱も判るし、それに俺は、リョオと彼女の両方の見る目を疑ってないからね」
 彼はいい友達だろう? 優しい赤い瞳がリョオを見つめる。こく、とリョオは頷いた。
「やっぱりリーヤが人狼じゃなかったから?」
 彼女の気持ちに応えなかったのは、という頭の部分を省いた問いに、ティーンは苦笑した。
「それは理由の一つに過ぎない。まあ混血を増やすより、配偶者に人狼を選んだほうが世の中のためだとは思うけど、それは後付けの理由だな。俺はあの子を妹としてしか見ることが出来なかった」
 ふーん、とリョオは判ったような判らないような声を漏らし、それからくすりと笑った。
「妹とられてさみしいっていうのは少しはあるんだ」
「まあね」
 答えた後、人に言うなよ、と付け足す。
「判ってるよ」
 執務室の前で止まり、リョオはドアをノックした。
「おじい様、リョオです」
「入りなさい」
 ドアを開けると窓際に立ったアストライアが二人を迎えた。
「急な話で悪いんだが、明日から二人共何日か時間を貰えるか? 数日出掛ける」
「三人で?」
 珍しいこともあるものだ。
「そう。ティーン、馬車を頼む。あまり人数を増やしたくないんだ」
「判りました」
 ティーンはす、と頭を下げる。
「少ない人数で行きたいのに、僕も行っていいの?」
「お前もおいで、リョオ。私の曾祖父に会いに行くのだから」
 仕事ではない。これは個人的な用事だ。ならば気も楽というもの。
 にこりとリョオは笑った。
「じゃあ、支度してきますね、おじい様」
 アストライアの曾祖父ならば、生きていても不思議ではない。ずっと昔にはこの部屋で領主としての仕事をこなしていた、そしてやはり一人の女のために戦っていた人の筈だ。会ったことのない、血のつながった肉親。どんな人なのか、想像するだけでわくわくする。
 リョオは部屋に戻り、リーヤに手伝ってもらって少なめに荷物をまとめると明日に備えた。

◆       ◆       ◆

 翌日の早朝に三人は街を出た。
 二頭立ての馬車。繋いだ馬はリョオのアルクトゥルスとティーンの持ち馬のデルクだ。アレクスのかつての愛馬ディルブランと気性や姿形は似ていても、アルクトゥルスは馬車を御するのがリョオでなくても馬車にリョオが乗ってさえいれば気にしないらしい。それはリョオにとってというよりも、ティーンにとって相当楽な事ではあっただろう。
 目的地はアストライアがティーンに渡した地図に示してあった。彼を呼んだ人は、地図をそのまま使い魔に変じて送ってよこしたようだった。
 馬車の中、アストライアから事の経緯を聞いた。
「へえ、鸚鵡。珍しいね、鸚鵡の使い魔なんて。アレクスのは鷹なんだよ。かっこいいよね、黒い鷹」
「お前なら、何を使う?」
 問われて、リョオは考えた。アストライアは確か、鳩だっただろうか。自分ならば……。
「僕なら……判らないな、その時にならないと。まだ鳥を使ったことないし」
「そうか」
 動物なら、狼でないことだけは確かだけどね。
 窓から見えるティーンの後ろ姿にちらりと目をやり、微笑んだ。狼ならば、本物がいる。
 五つの街を通過して、二日目の夕方に目的地に着いた。
 小さな村から更に少し外れた所にぽつんと家が建っているのが見える。印象としてはアレクスのところと大差ない。人から離れたい理由など、彼と違って無さそうなものだったが。
 家の前まで着くと、馬車を停めた。
「着きました」
 ティーンがドアを開けてくれる。
 アストライアに伴われて外に出ると、アストライアはティーンの名を呼んだ。
「ここでお待ちしています」
 何か言われる前に彼はそう答える。彼は出過ぎた真似は決してしない。己の分をわきまえ、自分は部外者だと心得ている。
 アストライアは頷き、リョオを従えて玄関のドアを開けた。

◆       ◆       ◆

 あ──
 リョオは目を閉じた。
 温かい家庭の空気だ。気持ちを和ませる優しい気配がこの家にはある。けれどそれは残滓に過ぎなくて……。
 ぴりり、と心の琴線をかき乱す思念が微かにある。それが何かは判らなかったが、落ち着かない気持ちになった。
「ここにはいないな」
 アストライアが呟き、隣の部屋に移ろうとしていた。
「待って」
 手を伸ばし、腕につかまる。アストライアの安定した精神が傍にあるとほっとした。
「どうかしたか?」
 ドアの向こうを覗きながら尋ねられたが、はっきりしなかった。まだ良く判らない。ただ、負の感情が近くにあることが不安だった。追い詰められるような気分にさせられる。
 更に奥のドアに向かう。
 きいん、という警告。近づいている。今度こそ判った。
 時間の止まった闇の様な、その感情は──
「おじい様……」
 絶望、だ。
 ドアを開け、アストライアは口を開いた。
「見届けに参りました、御祖父様」
 そっと、リョオはアストライアの後ろから部屋の中を覗き込んだ。
「待っていたよ、アストライア」
 疲れたような声で迎えたその男は、確かにアストライアとの血のつながりを感じさせる風貌の持ち主だった。
 二つある椅子の一つには破れた女物の服と剣、そしてもう一つの椅子に深く腰掛けた彼は、一族特有の厳しさを落ちくぼんだ目に漂わせ、そして空虚な無表情の見える顔を二人に向けた。
「連れはどなたかな。お前の血筋だろう?」
「ええ、私の孫娘の子供です。リョオ、アルディアス御祖父様だ。ご挨拶しなさい」
 部屋の中に入るのは勇気のいることだった。絶望の満ちた部屋の中に、その主の側に行く事はリョオにとって、押し返されるような重苦しい空気の壁に己の身体をねじ込む事に等しかった。けれど、彼は確実にリョオと血のつながった肉親なのだ。ゆっくりと、リョオはアストライアの後ろから出てくると部屋に入り、男の側まで行くと膝を付いて見上げた。
「初めまして、おじい様。リュオス・デービーです」
「孫娘は、デービーの男と結婚したのですよ」
 優しい声が後ろでした、と思ったらアストライアが近くに来ていた。
「そうか」
 ふっ、と絶望が薄くなる。アルディアスは、微かに笑っていた。
 西日に照らされたリョオの紫の髪に痩せた手を伸ばし、それから、かさかさの大きな手で頬に触れた。
 恐れた程に絶望は感じられなかった。だが希望はない。ただ、悲しい程に優しかった。
「お前はデービーの至宝なんだね、クラリスの戦士ではなく」
 いとも簡単に女であると見抜かれても気にはならなかった。彼は戦士──デービーの女を守るために戦う者なのだから。
「お前を守った戦士は誰だった?」
「それは……」
 リョオを守ったのはたくさんの、かつて志半ばにして倒れた戦士達だった。ある者は戦いに赴き、ある者はリョオの傍らにいて敵から守ってくれた。そして全てが終わった後にそれぞれの恋人の手を取り、旅立っていった。
 だがあの時、誰よりも多くの敵を倒し、己も傷を負いながらも壊滅状態に追い込んだ功労者が誰かは明白だった。
「僕を守ってくれたのは、かつてデービーの少女を守りきれずに逝った戦士達の霊魂です。僕の場合、争いの最後の変わった形で物事が進みましたから。でも、おじい様が言っているのはそういう事ではないのでしょう? 従兄のアレクスは僕のために、だけではないけれど、戦ってくれました。そのために彼が払った犠牲の大きさは、僕には償いきれない位でした。でもアレクスは僕を責めなかった。ただ戦ってくれました。僕は、数えきれない位彼に助けられて、守られて、そしてここにいる。アレクスは人と違う所はあるかもしれないけれど、彼の強さと優しさは、僕は判ってるつもりです」
 アルディアスはそれを黙って聞いていた。そして、アストライアもまた。
「そうか……。ならば、何も言うことはない」
 くしゃっと彼はリョオの髪を撫でて微笑み、それから手を離すとアストライアに言った。
「見事にデービーの面影が色濃く入っているな。長い年月の間に幾度も二つの血が混じり合って、本当ならもうほとんど一つになっていてもおかしくないというのに。これも、一つの呪いではあるのかもしれないな」
「……かもしれません。だが、害はない」
「確かにな。これでいい」
「………」
 しん、と沈黙がおりた後、再び彼は口を開いた。
「七日前に、ケイティアが死んだ」
 椅子に置かれた女物の服に目をやる。
 絶望の根源。リョオは目を伏せた。
「………」
「私の時代にデービーの娘を愛したのは弟のアズディーンだったから、彼女はデービーの女ではなかった。だが優しい女だった」
「ええ」
 ゆっくりと、アストライアは頷く。
「彼女は私よりも年上だったからな。私と共に生きられるだけ生きてくれた。だから、もういいんだ。どんどん若い世代が生まれ、私と共に歩む者ももういない。その気になればまだ生きられるが、目的もなくそんな事をしても無意味だ」
「もう、決められたのですね」
 労りを込めた口調でアストライアは言った。
「ああ。お前は止めはすまい」
「止めはしません。お心のままに」
「家畜も武器も書物も商人に売り払った。剣は幾つか残してあるが。何か要る物があれば持って行けばいいし、金は元々あの屋敷を出る時に持ち出したものだから、お前が持ち帰るがいい。後の処分を任せてもいいな?」
「はい。リョオ、おいで」
 呼ばれて、リョオは黙ってアルディアスの顔を見つめながら立ち上がり、数歩さがってアストライアに並んだ。
 アルディアスは椅子から立ち上がると、女物の服と一緒に置いてある剣を手に取り、鞘を払った。
「リョオ、お前が誰と共に歩むのかは知らないが、戦いを生き延びたお前は誰よりも幸せになる権利がある。判るね? 未来は自分で作るものなのだから」
 未来を作るのを止めた男は、自分の時間を歩き始めたばかりの子供にそう言って、そして、刃を己の胸に深々と埋めた。
 わずかばかりの砂粒が舞い、胸に穴の空いた衣服がぱさりと床に落ちて──アストライアはそれをそっと抱きしめた。

◆       ◆       ◆

「大丈夫か?」
 気遣うティーンにリョオは笑いかけた。
「大丈夫。僕も子供じゃないから、判ってるから」
 言われた通りに金の入った木箱とかなりの業物であった数本の剣を馬車に入れ、残された家具なども結構な値打ち物ではあったが、故人の想いを踏みにじる気がしてそのまま残した。
「点けるぞ」
 アストライアが言い、彼の上向けた掌に炎が上がったと思うと、それをアルディアスの家に向けて放った。
 高々と真っ赤な炎が家を包み、黄昏の空を焼いた。
 こうして人は死んでゆくのだ。リョオは思った。
 鮮やかな去り際を見せて、消えてゆく。
 ぱちぱちと木のはじける音をさせ、屋根が落ち、少しずつ炎の中で家が崩れていく。
「そろそろ冷えるぞ」
 アストライアが肩にマントを掛けてくれた。ふと、マントを留めたブローチに目をやる。
「これ……」
 見たことのない金色のブローチ。
「形見に貰っておけ」
 明かりに照らされてアストライアが微笑しているのが見えた。
「そうします」
 リョオはマントを胸元でかき合わせた。
 アストライアもいつかは領主の座を誰かに明け渡し、屋敷を出ていくのだろうか。そうして暗域の片隅で死んでゆくのか。だが今のところ領主を継ぐ者はいない。アレクスの拒否を彼は認めてしまった。簡単に。
 彼が何を考えているのかリョオには判らなかった。多分、なるようになるのだろう。彼の時間はまだまだ長い。リョオがあれこれ心配するのは僣越というものだ。
 リョオは燃え盛る炎に目をやった。
 炎はいつまでも闇を照らし続けるかに見える。
 紅く染まる空を見ながら、ふと、無愛想な従兄の顔が見たくなった。

END    




「お前はデービーの至宝なんだね、クラリスの戦士ではなく」
 このたった一つの台詞を書きたいが為に、私は話を一つでっち上げたのでした。
 家を燃やしたくなったのはおそらく「ギルバート・グレイプ」の影響と思われます(^^;)




Dark Sphere
RAY's TOP
INDEX