幸せになってください
ざわざわと人々が出入りしている。
ここは結婚式場の新婦控室だ。あと二十分もすれば小さなチャペルで結婚式が始まる。
「みんな席に着き始めましたから、時間が近くなったら呼びに来ますね」
親類同士の顔合わせも終わり、式を待つばかりのほんの一時、新婦は一人になることが出来た。
準備はあれほど大変だった結婚式も当日になってしまうと物事は怒濤のように過ぎ去っていく。人形のようにしていればウエディングドレスを着るのも、メイクも、みな周りがやってくれた。落ちついてものを考えるいとまもない。
そして一時、部屋から自分以外の人間が一人残らず消えた。
「今の今まで目まぐるしかったのに、嘘みたいね」
彼女は一人呟いた。
もっとも、ウエディングドレスを着てティアラもベールも着け、あとはさっき一度外した手袋をするばかりという恰好ではそれほど動き回る訳にもいかないので椅子に腰掛けておとなしくしていたのだが。
この、式の開始を待っている新婦の名は
大学時代に深く愛した恋人と別れて後、かなり長い間異性との付き合いを避けていたが、今日彼女は結婚するのだ。もちろん、心から彼女が望んだ結婚だった。
新郎は新婦とは入場が別であるから、今この時彼女の隣にいるわけにはいかない。なんとなく手持ち無沙汰でもあり、心細くもあるような気持ちで窓の外に目をやった時だった。
かち、と音がした。
ドアを振り向くが、誰もいない。
「………?」
首を傾げたが、やがてドアの鍵が掛かっているのが目に入った。誰かが外から鍵を掛けることなどないと思うが、部屋にはむろん自分以外誰もいない。
その時、ドアの前にじわじわと空中から闇が滲み出るように黒いものが現れた。
人、だ。
それは、首から下をすっぽりと黒い長いマントに包んだ男だった。かつての恋人が人間でなかったおかげで、空中から人が現れるのを見たのは彼女は初めてではない。もうずっと、それを目にしたことなどなかったけれど。
一瞬頭をよぎった男の顔ではなかった。
(ライアじゃない……)
ほっとしたような、がっかりしたような複雑な思い。
彼に二度と会えないことくらい、判っているのに。
「俺を覚えているか?」
相手はそう言った。
ライアと同じく魔物であることは明白だった。
おそらくは本来ライアも持っている筈だったに違いない漆黒の長い髪、鋭い瞳。
暗い色をしたその冷たい瞳には覚えがあった。
「あなたは、ライアの……」
友人だ。異端の妖魔であるライアの唯一の。
「そうだ」
にこりともせずに、彼は長いマントを背にはね上げた。黒いせいで色彩的にはそう派手でもなかったが、豪奢な装いがその内から現れる。
細かい柄を黒一色で織り上げた、上質の布で出来た上着は銀の糸で縁取られており、銀のボタンで留められていた。黒の剣帯にも銀の鎖が飾られていたが剣自体は全て黒一色だ。
一度だけ会った事のあるその男は、確か名前はレイと言った筈だ。もちろん本当の名前だとは思わないけれど。
彼は昔会った時から年をとった風にも見えなかったが、魔性のことだ、そういう事もあるだろう。当時短かった髪だけは背の半ばまで伸びて全く違った趣を見せていたのだが。
「伝言を預かって来た」
そして、その手にあったのは──
彼は歩み寄ると、手に持っていた花束を座ったままの柚芽の手に無造作に渡した。
見たこともない真っ白な花。棘があるが薔薇とも違う。それに、薔薇の棘よりも細くて鋭そうだ。その棘は花のすぐ下のごく小さなもの以外全て切られ、肌を傷つけないようにされていた。
「これ──」
「暗域の花だ。明日には消えて無くなる」
「きれい……」
しばし、彼女は目を閉じて花に顔を埋めた。酔ってしまいそうな良い香りがする。
彼は黙って彼女が顔を上げるのを待っていた。
「ライアも、日本に?」
「いや」
勇気をふり絞っての問いに対する彼の答えは短かった。
「会わない方が互いのためだろう」
感情のこもらない闇色の瞳が真っ直ぐに柚芽を見つめ、彼女はちょっと気圧されて俯いた。
「そう……そう、ね」
互いに胸を引き裂かれるような思いをして別れたのだから。
それに、そう、今日自分はライア以上にかどうかの自信はまだ持てないものの、同じ程には愛している他の男性の妻となるのだ。
その人との間に障害は何もなかった。
彼は彼女と同じ人間なのだから。
だからライアとは会えない。
その時、ドアのノブがかたと音を立て、彼女ははっとしてそちらを見た。
鍵が掛かっているとみると、コンコンとノックされる。
「ごめんなさい、ちょっと待って!」
彼女は腰を浮かせ、声を上げた。まだ、ライアからの伝言を聞いていない。
ドアの方を彼は振り向きもしなかった。
柚芽が立ち上がったので、自然彼との距離は近くなった。マントを留めた銀色のブローチには銀の細い鎖が付いている。この姿は彼らの礼装なのだろうか? 出会った事のある魔物達はいつも人間の服装をしていたから、彼女はあまり異界の服装を見たことがない。それでも随分とそれは華麗で、結婚式場というこの場所に相応しいよう、気を遣われているように思えた。
式に出席するわけでもあるまいし。
そう思ってから、考え直した。
出席してくれるつもりなのだろうか。
色彩的には問題はない。人間に姿を変えて、マントと剣を外してくれれば。まあ、他人の目には相当派手に映るだろうが。
もちろん姿を消したままその場にいるのならば、人間の目には映らないのだから何の問題もない。
「あの、結婚式にはご出席を?」
「まさか」
思ってもみなかった事だったらしく、僅かに表情が動いた。
「あ……、チャペルなんだ」
今更のように気付く。魔物にとって気持ちのいい場所ではあるまい。
「そんなことは俺たちには関係ないと、あいつに聞かなかったか?」
「……」
「無関係の俺が出席するいわれもないだろう」
確かにそうだ。代理で出席してくれるほど甘い相手とは思えない。
ドアが再度ノックされた。
「あっ、はい!」
返事だけして、彼の腕を掴んでその顔を見上げた。多分、必死な顔をしていただろう。
「……『幸せになってください』」
彼女を見下ろし、ゆっくりと彼は口を開いた。
それは彼自身の声だったが、その口調、そしてその響きは確かに懐かしい人のそれを忠実に写し取っていた。思わず泣きたくなる。だめだ、泣いてはいけない。式の前に化粧を流す訳にはいかなかった。
「『俺は俺で、自分の幸せを見つける』……以上だ。確かに伝えたぜ」
乱暴でない程度に彼は柚芽の手を振りほどいた。
目の前で、彼の姿が薄れてゆく。行ってしまう。思わず彼女はそれを引き止めた。
「何だ」
「これを……」
用意されているブーケの中から彼女は小さな一輪の白い薔薇を抜き取り、手渡した。
「預かっていく」
素っ気ないくらい短く彼は言って、そして次の瞬間そこに彼の姿はもうなかった。
更にノックの音は続いた。
慌ててドアの鍵を開けに行く。鍵は掛けたものの、彼は去る時に開けては行かなかったのだ。もっとも、鍵が開いた途端にドアを外から開いた場合、ドアの前に彼女がいなかったらやはりそれはおかしいだろう。
「どうしたんですか? 鍵なんて掛けて。そろそろ時間ですよ」
「ええ、ごめんなさい」
なんとか笑顔を作ることが出来た。
「あら、綺麗な花束」
真っ白な花びらと鋭い棘を持つ暗域の花。明日には消えてしまうとあの妖魔は言っていた。やはり、ライアは最後に別れた時に全ての品を持ち去ったように、自分の手元には何も残してくれない。多分その方が彼女にとっても良いのだろうけれど。
「知り合いからの、贈り物です」
彼女はもう一度花の香りを胸一杯に吸い込んだ。
(幸せになってください)
はい……はい。
(俺は俺で、自分の幸せを見つける)
私も自分の幸せを守っていきます。
だから、「あなた」も幸せになってね。
さようなら、「あなた」。
彼女は支度をととのえ、顔を上げた。
式場の扉が彼女を待っている。
帰って来たアレクスをライアは迎えた。
「お帰り。お疲れ」
「ほらよ」と、アレクスが一輪の花を彼の方に放った。
小ぶりの白薔薇。
「柚芽から?」
「ああ。花嫁のブーケの中の一輪」
「俺に結婚しろって事か?」
アレクスはそれを聞いて心底呆れたらしかった。
「馬ー鹿」
ちょっと傷つく。本気で言ったわけでも無かったのに。
アレクスは長いマントを椅子の背に放り出すと鬱陶しそうに上着の襟の留め金を外し、襟元を開いた。
「くっそ、人にこんな面倒な事させやがって。お前が正装で行けっていうから、式に出るのかと聞かれたぜ」
「出りゃ良かったのに」
「ざけんな」
不機嫌に彼は言った。この借りは随分高くついたな、とライアは思う。
「元気だったか?」
「別に翳りは見えなかった」
「そっか」
ほっとする。
元気で幸せでいてくれるのなら、それでいい。もう二度と会うこともないだろうから。
彼は目を伏せると真っ白な花びらにそっとキスをして、それから手の中の薔薇に火をつけた。
薔薇の香りが炎と共に辺りに広がる。灰域の花は暗域の花よりも優しかったが、それでも薔薇は薔薇だった。気品のある白薔薇は抵抗するように甘い芳香を放ち、そしてやがて燃え尽きていった。
ライアは灰を窓から風に乗せると、さっぱりした顔でアレクスを振り返った。
「帰ろうか。今から帰れば夜には暗域で酒が飲めるぜ」
アレクスは黙って肩をすくめただけだった。
何も言わない。
多分、ライアは彼のそんなところが好きなのだ。
そうして二人の妖魔は灰域を後にした。
幸せに、なってください。
それだけが俺の望みです。
END
この話はですね、よりの結婚祝いに前に書いた話です。
結婚祝いにしてはちょっと別れのムードが漂ってますが(^^;)
本編より何年も先の話ですね。