緑柱石ベリルの瞳

 緑の森に住むのは一人の鬼、そして彼の選んだ一人の若い女。
 鬼はいつでも一人だ。白い肌に深い緑の髪を波うたせ、その瞳もまた神秘的な緑。
 彼はいつも孤高の存在。親はなく、そして子もない。
 女は彼にとって玩具であり、愛欲を満たすためのものであり、そして子を産ませるための道具でしかない。
 彼に母はない。彼の母は人間の女。彼はその腹を喰い破って生まれた。
 彼に父はない。父は彼と同じ鬼。彼が生まれてまもなく、彼に喰われた。
 彼の子は生まれない。彼に子ができる時は、それがすなわち彼の死すべき時であった。
 人間よりも永い時を生きるがゆえに、そしてまた彼の気まぐれゆえに、彼の囲う女は時折変わった。
 皮を剥いだ木の幹の色をした彼の二本の角は、彼と人間との間に一線を引き、人間は彼を人喰い鬼と呼ぶ。
 彼に名はなく、彼も、そしてまた彼の父も、ただ緑の鬼とだけ名乗る。
 緑の鬼は生まれた時に親を喰い、子が生まれた時に喰われるため、生涯一人である。
 世界中を探しても、同じ種族を見出す事は不可能であり、いつ滅び去っても不思議のないたった一個の生命であった。

*       *       *

 彼は森の中の屋敷で一人の時を過ごしていた。
 今まで側に置いた女の中で一番長く彼と共に過ごし、そしてまた今までの中で一番彼を愛した女を彼が本人同意の上で食べてから三五日が経過していた。
『そなたがもう子を産める年ではないという訳ではないが………』
『とても若いとは言いがたい。そうでしょう? 私に飽きたらいつ食べてもいいって、初めて会った時に言ったはずよ。構わないから私を食べて。私があなたを殺すことになる子供を孕まずにすんで、どれぐらい嬉しいか、あなたにはわからないでしょう』
 以来、この緑の森には若い女はおろか、彼の食事となる人間もやって来ていない。一度食べれば長いこと何も食べずにいられるから別にまだ飢えに苦しんではいないが、元々この森は人喰い鬼の住む森として土地の者の寄りつかないところである。これでも最後に獲物が来てから時間を開けて、そろそろ次が来る頃だと判断して事を実行したのだが、どうやら見積りが甘かったらしい。自分に従順だったので他の女よりは気に入っていたあの女を、食べるのを早まったと少々後悔し出した頃のことだった。
 森の木々が騒ぐ。
 玄関から中に入ると右と左の二つに分かれている彼の屋敷の右半分、それが彼の生活空間だ。彼の寝室のベッドを構成している生きた木々の葉がざわざわとざわめき、彼を眠りから覚ました。起き上がった彼に、彼だけが理解できる囁きで侵入者の存在を知らせる。
「男と───その子供?」
 彼は呟く。生まれたばかりの赤ん坊ならともかく、子供は不味い。この際、子供は無視するとしよう。
「足止めをしておけ。子供と引き離してな」
 そう言って、彼はベッドからおりると外に出た。

*       *       *

 木々の間、植物の蔓と枝が絡みあって行く手を阻む壁を必死で切り開く男が近いことを緑が教えてくれる。彼は緑色の障壁に向かって命令した。「道を開けよ」と。
 獲物を追う楽しみも少しくらいは残さなければ面白くない。すぐに全ての植物はそれに従う。彼のために枝はことごとく彼をよけ、ついでに男の邪魔をしていたものもあるべき姿に戻り、悪意をもって壁を作っていた事など嘘のように静かになる。
「うわあああっ!」
 逃げていく男の後ろ姿。森の中で彼の手から逃げおおせるわけなどないというのに、なんという往生際の悪い愚かな生き物。追いつくと同時に圧倒的な力をもって彼はそれをねじ伏せた。
「その様子では、この森がどういう所か知っていたとみえる。何故、知っていて足を踏み入れた?」
 彼は尋ねた。甘く見られるのは好まない。だが、そういうわけでもなさそうだ。
「た、頼む、見逃してくれ! 子供をやる。金髪のかわいい娘だ。だから食べるのだけは………!!」
 男の必死の言葉に彼は薄く微笑んだ。生き延びるためならばあらゆる手を使い、いつになっても変わらぬ、なんと愚かな者どもか。愚かで惨めで、そして彼を楽しませる。
「くれると言ってもこの場におらぬし、目の前の肉よりも価値あるものとは思えぬな」
 青ざめた男の喉を喰い破り、息の根を止めた上でゆっくりと食事に取り掛かる。その身を引き裂くと跳ね返ってくる生温かい血が、心地よく彼を濡らした。まともな人間ならば正視に耐えぬ、血塗られた捕食の構図。しばらくして、臓腑を少しばかり喰らったところで彼は手を止めた。
「………。」
 出来の良くない安酒をしこたま食らって来たらしい。なんとなく、喰う気が失せた。別にこれを食べねば飢え死にするわけでもなし、無理をして腹に入れるのも体に悪い。
「帰るか」
 彼はいくらか不機嫌な声で呟き、立ち上がった。放っておけば死体は森が消化して、きれいに消し去ってくれる。戻る途中、木の枝に男の荷物が掛かっていた。来るときにはなかったから、木々が枝を使って運んで来たのだろう。
「どうせろくな物は入っていまい。捨ておけ」
 その言葉にゆっくりと枝は首を垂れ、するすると滑って荷物は地に落ちる。彼はそれに一瞥もくれることなく、その場を後にしていた。
 躊躇いがちに木々が彼に囁きかける。彼は立ち止まり、上を見上げてその声に耳を傾けた。さやさやという木の葉の囁きは決して彼の耳には耳障りなものではない。たとえその伝える内容が彼にとって不本意なものだったとしても。
「屋敷の前に?」
 男の子供が、どういう道をとったのか彼の屋敷にたどり着き、その前で住人の戻りを待っているのだという。
「“金髪のかわいい娘”………か。どこまで当てになるものやら」
 やっかいごとの予感に彼は眉をひそめた。

*       *       *

 入口の前に座り込み、膝を抱えていたのは十二か十三ほどの少女だった。鮮血に染まったまま戻って来た彼を見つけて立ち上がる。男の言葉はあながち嘘でもないらしかった。豊かな金髪に白い肌、もう少し年を重ねていればここに置くことも口直しにすることも出来たのだが、やはりこれは若すぎた。
「怪我………してるん、ですか?」
 見上げたその瞳が緑色なのを見て彼は珍しく思った。澄んだ湖のような緑色、彼と良く似た二粒の宝石。
「ただの返り血だ」
 答えながら、彼は少女を観察した。あの男が親なら無理もないが、かなり粗末な身なりをしている。人のお下がりか何かのようにくたびれ、薄汚れており、洗ってもきれいにならないものと思われた。手荷物は無骨な革の鞄がひとつ。
「我が恐くはないのか? 父親がどうなったかぐらい、見当はつこう」
「私を、食べますか?」
 逃げる気配もなく、静かに少女は問い返した。その表情に漂う憂いは、年齢に似合わぬものだった。ここで死のうと生きようと同じこと───そう告げている。
「折角だが、子供は美味しくないのでな。早々に立ち去るがよい、命拾いしたことを幸運と思うことだ」
 少女の横をすりぬけ、ドアの把手を乾いた血のはりついた手で掴んだとき、その腕に小さな荒れた手が掛けられた。
「───何だ」
 そちらを見ることもせず、手を止めただけの緑の鬼に少女は頼んだ。
「私を、ここに置いて下さい」
「馬鹿を言うものではない。家におとなしく帰るのだな」
「帰るところなんてありません!」
 口のきき方を知らぬ娘だ───少々不快に思う。嵐のざわめきの方がまだましだ。
「雑音を我は好かぬ。声を荒らげねばできない話でもなかろうに」
 言いながら振り向いた彼は真っ直ぐにこちらを射抜く緑の輝きにぶつかった。久しく見ない、と言うよりも初めて見る、緑の鬼のものではない緑の瞳。
「ごめんなさい。でも、本当に行くところなんてないんです。もう、どこにも───」
「自分の面倒は自分で見られる者しかこの森には居られぬぞ。我は何もしてやらぬ」
 彼が前に森で飼っていた女を食べてしまってから、しばらく森には彼一人だった。だから、まだ子供とはいえ、早めに女を仕入れておくのにやぶさかではない。この娘が大人になるまでにもっと使えそうな若い女が来たらどうするのだ、と警告するもう一人の自分がいる。だがその時のことはその時考えればいい。この瞳をしばらく手元に置くのもまた一興というものだ。
「料理も洗濯も裁縫もできます。お掃除も───迷惑は掛けません」
「それからもうひとつ」
 彼は少しばかり意地が悪かったかもしれない。己の腕に乗っている少女の片手を掴み、唇に笑みを浮かべる。
「大人になったら、我の子供を産んでもらうが、良いな?」
 もっとも、この年で正確な知識があるものかどうか。なかったところで別にどうという訳でもないが。驚いた様な顔をして、少女は彼を見上げる。
「鬼の子など、産むのが嫌なら出てゆくのだな」
 頼り無い目をして少女は首を振る。その唇から紡ぎ出されたのは、意外な問い。
「私なんかで、いいんですか?」
「随分自分に自信がないのだな」
 彼は笑ってドアを開けた。吹き抜けの玄関ホールが屋敷を二つに分け、曇りガラスのはまった丸天井から入る光が中を照らしている。左右の壁に一つずつ付いているドアの右の一つを示して彼は言った。
「こちらには入ってはならぬ、今はまだな。人の子が触れては危険な物もあるゆえ、そのうちに触れてはならぬ物を教えてやろう。左のドアは屋敷の左半分につながっている。そちらは全て自由に使うがいい」
 そう言って開いたドアの向こうは階段と、廊下と、寝室につながる開いたドア。鞄をその場に置き、少女は寝室に入り込んだ。天蓋の付いた大きな広いベッドが壁の真ん中に置かれ、それでもなお部屋は身の置きどころをどこにしようか戸惑うほど広かった。窓からは深い緑色に沈む森の木々が見える。入れば人間は無事に出て来られぬという、緑の森。
「前の住人の使いやすいようになっているだろうが、家具を動かすなりそなたの好きにするがいい。地下にまだいくらか人の子のための食べ物も残っていよう。水は屋敷の左手の奥に泉がある。しばらく、本当に一人で自分の世話ができるものか試してみるのだな。我は眠る。数日経ったら起きてくるゆえ、それまで一人で生きてみよ。屋敷の右半分は立入り禁止だ。良いな」
 言いおいて出て行こうとした彼の所に戻って来た少女は綺麗な笑みを見せた。その淡い瞳は決意を秘めて輝き、緑の鬼である彼をして惹き寄せる力を持っている。まったく、もう少し育ってから来てくれれば良かったものを。彼は思いながら右のドアを抜け、地下に下りるとそこに湧いている泉で男の血を洗い流した。そしてその泉から水を吸い上げているためにいつでも瑞々しい、毒を持つ樹が作りあげたベッドで眠りについた。

*       *       *

 少女は一人で何から何まで自分の面倒を見ることに成功したらしく、五日後に彼が目覚めた時も逃げ出さずに屋敷に留まっていた。もっとも、森の木々が動物を捕まえてくれても皮を剥いだりするのがどうしてもできないと言って、菜食主義者に変貌してしまったのが問題といえばいえたかもしれない。今まで子供が屋敷にいたことはなかったので大きさの合う服がなかったと見え、サイズを直すのに苦労したらしいが本人は満足気だった。
「あなたの名前を教えてくれますか?」
「名はない」
 彼は言った。誰も彼に名を授けず、誰も彼の名を呼ばない。それで不自由を感じたこともない。なぜなら、彼は緑の鬼なのだから。緑の鬼は彼一人しかいない。類似する者はこの世にはいないから、区別の必要もなかった。
「私はエメラルド。眼の色がそっくりだって。両親は青い眼だったし、緑の眼を持った人なんて国のどこにもいなかったのに、私はこんな色で………」
「緑色は『こんな』色か?」
 彼は尋ねた。笑みを含んだ問い掛けに、エメラルドは他でもない、彼も緑色の眼を持っていることを思い出して顔を赤くした。それからじっとその目をみつめる。
「あなたの目は、私なんかの目よりずっと綺麗です」
 哀しそうな目を彼の髪に移すとおずおずと触れてもいいか尋ね、彼が怪訝な顔で頷くと背の半ばまである暗い緑色の髪にそっと手を伸ばした。
「緑の髪は珍しかろうな」
「森の妖精みたい───」
 くっくっと彼は笑った。あらゆる人間が恐れる、人を喰らう緑の鬼をつかまえて森の妖精とは。森の緑を映した色をその身に纏い、森の全てを支配するが妖精に例えられたのは初めてだ。艶のある緑の髪は緩やかな波を作り、生き物の様に彼女の手から流れ落ちた。
「私は………とても運がいいんだわ」
 彼女はぽつりと呟いた。
「そうかもしれぬな」
 喰われることもなく、傷つけられることもない。この森で暮らすことが人間にとって良いことかどうかは知らないが。
「私は、あなたをなんと呼べばいいんでしょうか」
「好きにしろ。どう呼ぼうと構わぬ」
 何と呼ばれようと構いはしない。鬼でも人殺しでもそれはそれでよい。名前など、彼には意味を成さぬものなのだから。
「ベリルではいけませんか?」
緑柱石ベリルか───よかろう、それでよい」
 エメラルドも緑柱石である。だが、緑柱石というのはエメラルドの緑だけでなく、青いものもあるという事をこの小さな少女が知っているかどうか。だが、この先そう呼ばれるのに違和感を感じないくらい慣れきってしまうほど、エメラルドを側に置き続けることになろうとは彼も予期していなかった。

*       *       *

 緑の森には暦もなく、時を告げる鐘の音も聞こえない。エメラルドは時間の区切りのないそんな生活に少しずつ慣れてきていた。日が昇ると眼を覚まし、日が落ちると明かりをつけ、そしてやがて眠る。人間の使う暦の上の年も月も、なければないでどうということもなかった。新しい年が明けようと森の中で祭りをするわけでもなく、そんなものに植物も動物もとらわれはしない。
 そしてまた、エメラルドはベリルの存在にもすっかり慣れきっていた。ベリルは彼女と共に食事も取らないので、彼女としては自分だけならいくらでも手抜きができた。人喰い鬼と噂され、実際もそうであったが、ベリルは決してエメラルドを食べようとはしなかった。眠ると何日も起きてこないのと同時に何日も起きたままであったりしたが、起きていても彼女の前に姿を見せるとは限らず、エメラルドは大概彼のことを忘れていた。
 入り込むとあまりいい顔をされない屋敷の右側は、一階の書斎を除いたほとんどがまるで部屋の中に森が入っているようであり、最初にベリルが言ったようにエメラルドには危険な物がいくつもあった。人間が触れればやがて死に至るという、細い幹の木が絡み合って構成された寝室のベッドがそれであり、その葉が上の方で天蓋を作り上げているのを見てエメラルドはそこで何事もなく眠れるベリルに寒気を覚えた。彼の身を守るためか、人間に害を与える植物は寝室が一番多く、案内されたエメラルドは二度とそこには入るまいと心に決めた。皮膚を溶かす樹液を出すもの、人間に寄生するもの、花粉を吸い込むと気が狂うという花はベリルの命令でおとなしくしていたのだが。
 おそらく、エメラルドが今まで暮らした同居人の中で、ベリルは最も理想的であったろう。二本の角や時折見え隠れする牙は慣れてしまえばなんでもないし、むしろ彼女の知るどんな人間よりも美しかった。彼女に無理を要求することもない。食べる物は、それが人間だという事にさえ目をつぶれば自分で手に入れてくれるから手はかからない。そして何より、彼は優しかった。いつもいつも、決して怒りを外には見せなかった。声を荒らげることはなく、顔には微笑みがやどる。
 問題は、その優しさが冷酷さと紙一重だという事ぐらいであった。森を荒らしに何も知らないならず者が来た時にも、彼はその唇に薄く笑みをのせて森に言うのだ、「殺せ」と───。自分が空腹でない時でも侵入者を生かして帰すつもりはないらしい。退屈しているときは自ら出てゆき、凄惨な地獄絵を思わせる血みどろの姿で帰ってくる。殺戮を楽しんででもいるかのように。
 もっとも、それすらエメラルドにはどうでも良いことだったのだ。
「父親を喰った相手を、何故、憎みも恐れもしない?」
 変わった子供だと、ベリルが笑う。エメラルドは小さく微笑み返した。それは緑の鬼のそれにも似た、魔性の笑み。
「あれは、私の父ではありませんから」
 両親の記憶はただひとつ。見開かれた四つの青い瞳と、拒絶の言葉。
『これは私の子供ではない!』
『こんな緑の眼をした子供が、私の子供の筈がないわ!』
 あるはずのない、生まれてすぐの記憶。
「あの男は、邪魔になった私をあなたに食べさせるために、ここに連れて来たんです」
 けれど、食べられたのは自分ではなかった。それどころか、前よりも自由な生活をさせてもらっている。なんて運がいいのだろう。
「初めの頃とは、随分態度が違うな」
 何かをさせられるわけでもなく、こんな広い屋敷に置いてもらえるのが不思議で、不安で………自分の子供を産めとベリルに言われても本当にこんな自分でいいのかとますます不安になった。親にさえ疎まれ、捨てられ、あちこちの家をたらい回しにされた自分。
「あなたを前にして嫌われるのを恐れるのは馬鹿な事だと気が付いたんです」
 その瞳を持つ彼には、自分の緑の瞳など、何の意味も持たないであろうから。
『気味の悪い眼だよ。あんな緑色をして』
『何を考えてるのかわかりゃしない』
『どこの誰だい、エメラルドなんて名前をつけたのは』
 見ると吸い込まれそうなベリルの深い瞳は自分のものよりもはるかに美しいけれど、緑ということには変わりがない。青い瞳の両親からなぜ自分のような子供が生まれてきたのか、そんなことは分からないけれど、緑の眼を持つ人間に出会ったことなどないけれど、それでもベリルだけは同じだった。
「それは何故だ?」
「あなたの眼が緑だから」
 ベリルは意外そうな顔をした。仮面のような笑顔ではない、珍しい生の表情。
「私をこの森に置いてくれるベリル、あなたが髪も眼も緑だから私は安心していられる。緑の眼は魔性の眼だと言ってまともに扱ってくれなかった人間とは違うから、私はこの森でならどんな処よりも穏やかな気持ちでいられるんです」
 今までの中で自分は今、一番幸せな時間を過ごしているとエメラルドは思った。大人になって、いつかベリルが自分に飽きてしまったら、彼は自分を食べてしまうかもしれない。それでも、ずっと街で過ごすよりは幸せに違いない。
「運が良かったのだな」
 ベリルの冷たい眼がふっと和んだ。
「はい」
 エメラルドは微笑んで頷く。運が良かったのはどちらだろう? 自分に決まっている。
 歩み寄ってきたベリルが手を伸ばして、くいと顔を上向けさせる。見上げた彼の眼は、綺麗だった。見る度に心惹かれる美しい緑。
「そなた、年は幾つだった?」
「十三………十四になったかもしれません」
 なにしろここには暦がないのだから、正確にはわからない。ただでさえ、本当の誕生日など知らないというのに。
「早く大人になるのだな」
 そう言ってベリルは笑うと、エメラルドの部屋を出ていった。

*       *       *

 エメラルドが森にやって来てから、一体どれほどの時が経ったのだろう。とうの昔に小さな少女は娘になり、そして美しい大輪の花を咲かせていた。一向に年を取る気配のないベリルと並んでも、もう見劣りはしない。それまでの間に若い女が森を訪れなかった訳ではないが、ベリルの姿を見て脅えない程の使える娘はいなかったのだ。エメラルドは人間を嫌っている分、今までのどんな女よりも彼に近づいた。
 子供のできた様子はない。そう簡単にできても困るが、とベリルは考える。緑の鬼は力が衰えてきて初めて、子供ができるのだから。少しは弱くなってきた自覚はあるが、まだ生きられる。それでもやはり、確実に誕生という名の死神は芽を出そうとしていたのだ。
「ベリル……」
 部屋を訪れた彼を、泣きそうな顔のエメラルドが迎えた。
「赤ちゃん、よ」
 彼は瞬間足を止めた。新しい命、新たな森の支配者の誕生。もうすぐ自分は要らなくなる。自分の誕生と同時に父の存在が不要となったように。幻聴が………時を刻む緑色の死神の足音が聞こえる───彼の残りの時間を思い知らせるかのように。それはあとどれ位だろう? くっ、と彼は笑った。
「そうか……」
 環境を整えなければ。ぼんやりと思う。幾人かの獲物を屋敷に住まわせて、エメラルドは右側の、人間には危険な植物がない部屋に置く。子供がいつ生まれてもいいように。生まれた時に人間向きの部屋にいては、何かと不都合だろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ベリル」
「何をあやまる?」
 泣きじゃくるエメラルドに彼は尋ねた。一番に子供に喰われるのは彼女なのだから、人間の理屈から言えば、謝るべきは自分の方ではないのか。もちろん、謝るつもりなど毛頭ないが。
「あなたを殺す子供なんて、作りたくなかった」
「先に喰われるのはそなたの方なのだぞ」
「私は本当は初めてあなたに会った時食べられるはずだったのよ。死ぬのは恐くない」
「我のことならば気にする必要はない。判っていたことだ」
 死ぬのは恐くない。けれど何かがひっかかる。ベリルは自らの思いを探ってみた。
 自分がそうしたように、母親を消化したのちに子供は父親の肉を必要とし、食べるだろう。それはもういい。遙か昔からの決まり事だ。嫌だというのは身勝手に過ぎる。
 緑の鬼の子供は人の子と違い、一人で生きられる。心配は無用だ。では、何が気になるのだろう。
 ベリルには、まだそれはわからなかった。

*       *       *

「ねえベリル、私もう少し栄養取った方がいいのかしら」
 大分経ってからエメラルドが言った。何を今更、とベリルは笑う。
「だって私肉食べないし、赤ちゃんに良くないんじゃない?」
 エメラルドもこの頃にはかなり子供に愛着も出てきたようで、自らの子供を恨むような言葉は聞かれなくなっていた。
「どうせ新たな緑の鬼はもうすぐ生まれてくるぞ。今頃から栄養を取ったところで役には立たぬ。今になってどうしたのだ」
 ベリルの寝室の隣の部屋で、丈夫な細い木と蔓が作り上げたエメラルドのためのベッドに座っていた彼女は傍らに立つ彼を見上げた。
「少し赤ちゃんに対して冷た過ぎたかしらって、反省したの。あなたを殺す子供でも、あなたの子供には変わりないのに。それに私がこの森にいられたのは、この子を産むっていうあなたとの約束があったからだし。そう思ったら、元気な子になってくれないと、森に置いてもらった恩を返したことにならないんじゃないかって」
 その、緑色の瞳。真っ直ぐに自分を見つめる緑柱石の………。
「恩など感じなくともよい」
 ベリルは目をそらした。そらして、壁をつたう蔦に手を伸ばし、濃い緑の葉を一枚むしる。指先でくるくる回すと緑色が踊った。望んだのは自分。その宝石の輝きを手元に置いて、眺めて、愛しむのも一興と、思ったのは自分ではなかったか。子供ができるくらい自分が弱るまで、長く置く気は初めはなかった。
「でもね、ごめんなさい。赤ちゃんは大事にするし何でもしてあげる。私の身体はこの子にあげるけど、でも心はあげられない。私の心はベリルのものだから」
 馬鹿なことを言うものだ。
 ベリルは思う。心など欲しくはない。人の子の心など、何の役にも立ちはしない。もう今は、何もいらない。自分の命さえ、今となってはどうでも良かった。
 そう言おうとしたとき、ふいにエメラルドが顔を歪め、体を折った。
「いっ……た…」
「痛むのか───?」
 エメラルドは無理に笑顔を作り、ベリルの腕を掴んだ。
「今はもう大丈夫、味見したのかしら。でももうすぐ生まれるわ。地下の泉に連れて行って、ベリル。私、部屋を汚したくないのよ」
「あそこは岩や地面がむきだしになっているが、それでもよいのか?」
 我知らず、彼は胸に痛みを覚えた。その理由には気付かないまま。
「それでいいのよ。お願い」
 ベリルはドアを開け、それからエメラルドを両腕に抱き上げた。この身体もしばらく後にはただの肉の塊となる。それも我が子の手によって。ふとそう思ってから、彼は自らの心に言い聞かせる。だから何だというのだ、そんなことを考えるのは馬鹿げている。
 階段を下りてゆく。階段は途中から石段に変わり、洞窟めいた地下へ続く。水の湧く微かな音と二人を迎える柔らかな木の葉の囁き、光苔の優しい光が辺りを包んだ。
「綺麗ね」
 エメラルドが溜息とともに呟く。緑色の眼が光る。小さな淡い光。人の子が恐れたという、美しい魔性の瞳。その光に半ば見惚れながら彼はエメラルドをそっと下におろした。まるでこれは壊れ物、そこに命のあるうちだけは。
「毛布を持ってこよう」
 そう言って踵を返した彼をエメラルドが止めた。
「いらないわ。いらないから、側にいて」
 そこにいろと瞳が言う。側を離れるのは許さぬと。その絶対の命に彼は従わざるをえなかった。こんな力は人間にはない。これは、緑の鬼の力だ。彼と同じ緑柱石の瞳だった。
「魔性の瞳、か」
「ベリル?」
 訝しげに彼女が見上げていた。
 いや、と彼は首を振り、笑う。これは定めだったのだろうか。人間でありながら緑色の瞳を持ち、我と我が身を惹きつけたのは偶然ではなかったと? 丁度いいときに森にやって来たものだと、自分は運が良かったと、確かに思った。あれは、初めから起きるべくして起きた事だったのだろうか。この女に出会ったことには意味があったのか。この緑の瞳には………。
 だがもう遅い。こんなにも自分はこの女に惹かれていたというのに。愛していたのに───気付くのが遅すぎた。
 目の前で新たな緑の鬼が生まれようとしていた。エメラルドは悲鳴を上げかけ、だがそれを飲み込もうと必死になっている。ベリルはそれを静観しているのが辛くなった。
 どうしてこれをただ見ていることに耐えられる? どうせ死ぬのだ。これ以上苦しませるのはかわいそうだ。
 幾多の人間を喰ってきた彼は、そのようなことは平気なはずだった。それなのに、まったく緑の鬼らしくない、感情。
 彼はエメラルドを抱き起こし、そのこめかみに口づけた。
「ベリル……」
 うっすらと彼女は目を開け、ベリルを見た。
「もうよい。これ以上痛みに耐えることはない」
 愛していたとは、言えなかった。そんなことを告げる資格は自分にはない。種の保存のために、己の子供にその身体を喰わせようとしている自分には。何もかもが遅すぎた。自分はこの女を飼っていただけなのだと、そう思っていられればよかったのに、こんな感情は知りたくなかったというのに。
「終わらせて、くれるの………」
 ベリルは頷き、そして、ゆっくりと彼女の白い首筋に牙を立てた。

*       *       *

 内側から肉を喰い破って出てきた小さな緑の鬼を、彼は泉できれいに洗ってやり、部屋に連れていった。
「ベ…ルル。………ベール」
 どうやらベリルと言おうとしているらしい我が子に、彼はきつく言った。
「そのような言葉は覚えずともよい」
 その髪は彼と同じ濃い緑、その瞳もまた、緑柱石の色であった。これからは、この若い緑の鬼が森を支配していくことだろう。
 緑の鬼をベリルと呼ぶのを許されたのは一人。彼が彼女を追って黄泉へ行くのもそう遠い先ではなかった。

END      




これは学生時代に在籍していた文芸部で部誌に載せたものです。
その前に緑の鬼を書いた超・短文があって、その続きという形でこの話が出来ました。
結構お気に入りです。

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