緑柱石ベリルの瞳

−1−

 彼の意識が目覚めたとき、彼は小さな世界にいた。
 狭く暗いが温かな世界。そして初めて目を開けて見回したそれは、そう、とても美味しそうだった。
 音が聞こえる。薄暗い世界の中とくとくという音が響き、そして時折誰かの話し声がする。
 あまり優しげではない温かみのない声。それが誰なのか彼は知っていた。父親だ。ただ一人の自分と同じ種族、ただ一人の身内。きっとその姿は未来の自分を予想させてくれることだろう。だが彼はまだ『世界』から抜け出して父親を目にすることは出来なかった。
 時が流れ、やがて彼は歯を手に入れた。牙だ。生えてきたそれはまだ小さいけれど、それでも彼のいる小さな『世界』を喰い破ることは出来そうだ。
 試しに少し『世界』の壁を食べてみる。自分を包み込んだ壁に牙を立てるのは骨が折れたが、最初の穴を開けてしまえば後はどうにでもなる。思った通り、それは美味しかった。
 外の世界に出るために、生まれ、味わうために彼は食べ進んだ。彼を包む澄んだ水が赤く染まり、温かな『世界』が揺れる。これは母親の体温。耳障りな高い悲鳴が耳についた。
『ああああ!』
 うるさい。少し静かにならないものか。
『騙したのね! 人殺し!』
 ぐらぐらと揺れて気分が悪くなる。彼がそこにいるということに、彼がその揺れを感じていることに、考えも及ばないのだろうか。
 愚かなことだ。彼は考えた。全ての生き物はいつか死んでゆくものだ。そして殺されてゆくものもまた、少なくはない。まだ外の世界を見ぬうちから、彼はその事を知っていた。
 激しく世界が揺れる。ひしゃげ、彼は押し潰されそうになる。ああ、気分が悪い。
 父の声が聞こえた。
『騒ぐな』
『いや……』
 彼は最後の壁を喰い千切った。それから小さな手を伸ばし、その壁の穴の端を掴んで引き寄せると齧りついた。そして力を込めて左右に押し広げる。だんだん壁の穴は大きくなり、彼が通り抜けられるくらいになった。
 顔を出してみると外の世界は広かった。それに、ずっと明るい。この肌を撫でるのは何だろう? さらさらしていて気持ちのよいもの。これは空気、だ。彼は生まれて初めての空気を吸い込んだ。植物の緑の気配を取り込んだ、綺麗な空気を肺いっぱいに満たす。
 そして今、彼の周囲でその空気に血の匂いが混ざり込んでゆく。真っ赤な死の匂い。赤い気配のする空気も嫌いではない、そう彼は思った。
 そして、大きな手に引き出されて見た。彼のいた『世界』の殻を──血まみれの女、彼の喰い破った内臓もあらわな腹と、黙らせるために父が喰い破った骨の露出した首筋、彼を決して愛すことのなかった母親の躯を。
 彼は口元を真っ赤に染めた父親を見上げた。血の色の鮮やかな白い肌、本当は白いはずの赤い牙、緑色の目と緑の髪、人を狂気に陥れる血にまみれた魔性のその姿を。
 きっと、父以上に自分は真っ赤なのだろう、と思いながら……。


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