緑柱石の瞳

−2−

 森があった。
 冬になっても緑の絶えることのない、人間の立ち入りを嫌う緑の森だ。
 緑の森に住むのは一人の鬼、そして彼の選んだ一人の若い女。
 鬼はいつでも一人だ。白い肌に深い緑の髪を波うたせ、その瞳もまた神秘的な緑。
 彼はいつも孤高の存在。親はなく、そして子もない。
 女は彼にとって玩具であり、肉欲を満たすためのものであり、そして子を産ませるための道具でしかない。
 彼に母はない。彼の母は人間の女。彼はその腹を喰い破って生まれた。
 彼に父はない。父は彼と同じ鬼。彼が生まれてまもなく、彼に喰われた。
 彼の子は生まれない。彼に子ができる時は、それがすなわち彼の死すべき時であった。
 人間よりも永い時を生きるがゆえに、そしてまた彼の気まぐれゆえに、彼の囲う女は時折変わった。
 皮を剥いだ木の幹の色をした彼の二本の角は、彼と人間との間に一線を引き、人間は彼を人喰い鬼と呼ぶ。
 彼に名はなく、彼も、そしてまた彼の父も、ただ緑の鬼とだけ名乗る。
 緑の鬼は生まれた時に親を喰い、子が生まれた時に喰われるため、生涯ひとりである。
 世界中を探しても、同じ種族を見出すことは不可能であり、いつ滅び去っても不思議のないたった一個の生命であった。


 彼は森の中の屋敷で一人の時を過ごしていた。
 今まで側に置いた女の中で一番長く彼と共に過ごし、そしてまた今まで側に置いた女の中で一番彼を愛した女を彼が本人同意の上で食べてから二十五日が経過していた。
『そなたがもう子を産める年ではないという訳ではないが………』
『若いとは言い難い。そうでしょう? 私に飽きたらいつ食べてもいいって、初めて会ったときに言ったはずよ。構わないから私を食べて。私があなたを殺すことになる子供を孕まずに済んでどれぐらい嬉しいか、あなたにはわからないでしょう』
 人を愛する事を知らぬ非情なる鬼を、彼には理解出来ぬ理由で愛していた一風変わった女だったが、彼は特にためらう事もなく手にかけた。
 彼が屋敷に女を置くのはいくつか理由があるが、やはり最後には彼の血肉となるのが常なのだ。
 以来、この緑の森には若い女はおろか、彼の食事となる人間もやって来ていない。一度食べれば長いこと何も食べずにいられるから別にまだ飢えに苦しんではいないが、元々この森は人喰い鬼の住む森として土地の者の寄りつかないところである。これでも最後に獲物が来てから時間を開けて、そろそろ次が来る頃だと判断して事を実行したのだが、どうやら見積りが甘かったらしい。心底自分に従順だったので他の女よりは気に入っていたあの女を、食べるのを早まったかと少々後悔し出した頃のことだった。
 何者かの侵入に森の木々が騒ぐ。
 玄関から中に入ると右と左の二つに分かれている彼の屋敷の右半分、それが彼の生活空間だ。彼の寝室のベッドを構成している生きた木々の葉がざわざわとざわめき、彼を眠りから覚ました。
 ゆっくりと彼は目を開け、起き上がった。頭の奥に眠りを妨げられた多少の不快感があった。機嫌の良くない彼に、彼だけが理解できる囁きで侵入者の存在を木々が知らせる。
「男と───その子供?」
 彼は呟く。生まれたばかりの赤ん坊ならともかく、子供は不味い。この際、子供は無視するとしよう。
「足止めをしておけ。子供と引き離してな」
 そう言って、彼はベッドからおりると部屋を出た。


 日の光のもと、まるで人間にとっては悪夢のように植物の蔓と枝が絡みあい、厳重な障壁を作っている。行く手を阻む壁を必死で切り開こうとする男が近いことを森が教えてくれた。彼は緑色の障壁に向かって命令した。
「道を開けよ」と。
 獲物を追う楽しみも少しくらいは残さなければ面白くない。すぐに全ての植物はそれに従った。彼の目の前で絡み合った枝と枝は互いに離れてあるべき姿に戻り、枝に複雑に絡んだ蔓はするすると外れて元通り成長に従った順序で幹から枝へと巻きついた。彼のために枝はことごとく彼をよけ、悪意をもって壁を作っていた事など嘘のように静かになる。
「うわあああっ!」
 逃げていく男の後ろ姿が見えた。人間を越えた力を持つ彼の手から逃げおおせるわけなどないというのに、なんと往生際の悪い愚かな生き物なのだろう。けれどそうせずにはおれない人間の本能を彼は良く知っていた。彼は男に追いつくと同時に圧倒的な力をもってそれをねじ伏せた。
「その様子では、この森がどういう所か知っていたとみえる。何故、知っていて足を踏み入れた?」
 彼は尋ねた。緑の鬼など恐るるに足らずと軽く見られたのだろうか。それはあまり楽しくない、我慢のならぬことだった。だが、恐怖に満ちたその目を見る限りそういうわけでもなさそうだ。
「た、頼む、見逃してくれ! 子供をやる。金髪のかわいい娘だ。だから食べるのだけは………!!」
 森の湿った土に頭を押しつけられながら、なりふり構わず叫ぶ男の必死の言葉に彼は薄く微笑んだ。生き延びるためならばあらゆる手を使い、いつになっても変わらぬ、なんと愚かな者どもなのだろう。
 だがその愚かで惨めな性質は、時に彼を楽しませてもくれる。
「くれると言ってもこの場におらぬし、目の前の肉よりも価値あるものとは思えぬな」
「絶望」という名の一枚の絵画と化したかのように青ざめた男の喉を喰い破り、息の根を止めた上でゆっくりと食事に取り掛かる。その身を引き裂くと跳ね返ってくる生温かい血が心地よく彼を濡らした。
 冷やかなこの森のように体温の低い彼にとって、人間の温かな血は気分を高揚させてくれるものだった。女の身体の温もりと、さて、どちらがより良いものか。抜き取った心の臓を握りつぶし、その血を喉に流し込む。まともな人間ならば正視に耐えぬであろう、血塗られた捕食の構図。
 だがしばらくして、臓腑を少しばかり喰らったところで彼は手を止めた。
「………」
 出来の良くない安酒をしこたま食らって来たらしい。なんとなく、喰う気が失せた。別にこれを喰わねば飢え死にするわけでもなし、無理をして腹に入れるのも体に悪い。
「帰るか」
 彼はいくらか不機嫌な声で呟き、立ち上がった。放っておけば死体は森が消化して、きれいに消し去ってくれる。彼自身と同じくらい血にまみれた緑の森だ。彼の父、そしてその父やそのまた父である代々の緑の鬼と共に人の血と肉を取り込んできた森だった。
 戻る途中、木の枝に男の荷物が掛かっていた。来る時にはなかったから、木々が枝を使ってここまで運んで来たのだろう。
「そのような物、どうせろくな物は入っていまい。捨ておけ」
 その言葉にゆっくりと枝は首を垂れ、するすると滑って荷物は地に落ちる。微かに酒と煙草の香りがしたが、彼はそれに一瞥もくれることなく、その場を後にしていた。
 屋敷へと向かう彼に木々が躊躇いがちに囁きかけてきた。
 彼は立ち止まり、上を見上げてその声に耳を傾けた。さやさやという木の葉の囁きは決して彼の耳には耳障りなものではない。たとえその伝える内容が彼にとって不本意なものだったとしても。
「屋敷の前に?」
 男の子供が、どういう道をとったのか彼の屋敷までたどり着き、その前で住人の戻りを待っているのだという。
 その住人が緑の鬼であることには思い至っていないのか、ここが緑の森であることすら知らぬのか、あるいは──
「“金髪のかわいい娘”………か。どこまで当てになるものやら」
 やっかいごとの予感に彼は眉をひそめた。


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