緑柱石の瞳

−6−

「頼むぜ、金は出すからさあ」
 華やかでざわざわとした夜の通りからは一本道を隔てた家の裏口で、猫撫で声を出して擦り寄って来る若い男をわざとらしく断る養い手の女。
「困るよ、あの子はまだ子供なんだから。何にも知らないんだよ」
 よく言うよ。内心で思うこととは裏腹に、遊びならした男はにこやかに笑った。
 親の金で遊び呆ける馬鹿息子の典型的な例になれそうな男だ。こんなやり取りは駆け引きとさえ言えない形だけのものだった。
「大丈夫、優しくするからさ。なんなら俺が一から教えるし、いっぺんでいいんだよ。言葉が通じなくてもそれはまたなんとかなるだろ。一度見てみたいんだよ、海の向こうの緑の瞳ってやつをさ。でも、金はたくさん払うって」
「しょうがない子だね。一回だけだよ」
 それが、エメラルドが一部の得意客にのみ提供される商品として売られた最初だった。
 そしてそれはやがて高い金を払っても珍しいものを抱きたい金払いの良い客に出されることとなるが、まだ幼いゆえに表向き店の商品とはされず、耳聡い者にのみ供された。


 エメラルドの意志など確かめもせずに人々の商談は夜毎成立していく。
 薄暗い部屋でベッドの端にぽつんと座っていたあの頃、何もかもを諦めていた。
(甘えるんじゃないよ。あんたみたいな子はこうでもしないと生きていけないんだからね。ここに置いてやってるだけでも感謝して欲しいくらいさ)
 何のために生きているのか、それさえ判らず、生きるために、親戚の女が連れてくる男の言いなりになっていた。それとも、生きるためでさえなかったのだろうか。生きたいと、そう思っていたわけですらない。
 自分の中に閉じこもり、意識して肉体と心を分離させていた。そこにあったのはただ、エメラルドという名の身体のみ。心も、意志も、何もなかった。回りがそれを望んだのだ。
 生きようと死のうと同じこと。それはきっと、エメラルドの分離され、半ば麻痺した心が得た無感覚だった。
「おまえは……!」
 唯一、彼女の意識が肉体に重なったときがあった。あれは、「珍しい異国の娘」が買えると噂に聞いてやって来た男が部屋に来た時だ。その男が何者なのか、エメラルドは本能に近いもので感じ取った。
 男が目にしたのはベッドに腰掛けた小さな身体、ろうそくの灯を映して光る緑色の瞳。そして、親から譲り受けた金の髪。
 ガタン、と男は雷に打たれたようにおののき後ろにさがった。
 この瞳が真に異国の血の成せるわざならば誰も何も思いはしない。だがエメラルドの瞳は違う。それはエメラルドよりも誰よりも、その両親が知っていた。暗闇に浮かび上がる緑色の瞳、これはなぜ、何のために、この娘の眼窩にはまっているのだろう。誰にもわかりはしない。
 わからないからこそ恐ろしかった。側に置くのには耐えられなかった。考えの読めぬ魔性の瞳に見つめられるのに耐えられなかったのだ。
 このような魔性の目をした子供が生まれるような、己れが何をしたというのだ。身に覚えはなくともこの気味の悪い子供を手元で育てればその因果を周囲は親に求めるだろう。一体どれほどの罪を犯しこのような子が生まれたのかと。
 思いも寄らぬ場所で再会し、ひどく動揺する男を無表情で見つめながら、何も感じることのない静かなままの心でエメラルドは思った。
 なぜそのように恐れるのです。これはただの子供に過ぎないというのに。
 無感覚の心が男の恐怖と拒否を感じ取り、揺らいだ。
 何故目をそらすのですか。これはあなたの娘ではありませんか、怪物でも何でもありはしない。
 血の繋がった親に再び拒絶された痛みとともに、彼女の心が身体に引き戻されてくる。そうなってしまったら、もうその痛みは消えない。意識の向こうに追いやることは決して出来ない。
 態勢をたてなおした男は平静を装って、捨て子同然に他人に預けたまま一度も共に暮らしたことのない娘に言った。
「異国の娘としてならば、却って良く売れるということか」
 そんなこと、私は知らない。
「ここは楽しいか?」
 何を見てそのようなことを言うのです、父よ。この小さな身体は、毎日引き裂かれるような苦痛に喘いでいるというのに。
 だが、エメラルドは一言も言葉を発しはしなかった。この、窓も何も閉めきられて閉鎖的な息苦しい部屋で、男と一緒の時には彼女は今まで一言も話しはしなかった。耐えきれずにもれる悲鳴と呻きと───それ以外のどんな言葉もエメラルドは客に聞かせたくはなかったし、彼女の心の遠い呟きは声に出ることはなく、言葉の通じない異国の娘で売りに出している女にとってもそれは都合が良かったのだった。
「行き着く所はここしかないというわけだ。その異形の瞳でいつかおまえは禍いを呼び、人を殺すだろう」
 エメラルドは小さく首を振った。この男は本気でそのような事を思っているのだろうか。
 これはあなたの娘です。小さな、頼りない、力ない子供。一体どれ程のことが出来るというのでしょう。ここから逃げることすら出来ないというのに。
「さすがに化け物の娘を抱く気にはならん。埋め合わせの客は連れてこよう。客が入らないのは困るだろうからな。魔性の子供だということは黙っていてやろう」
 彼は優しい言葉一つ掛けようとはしてくれなかった。偽りの謝罪の言葉さえ。望むものとは全く違う言葉がエメラルドの心を責め苛んだ。
 どうして、こんな言葉を?
 私は人の子です。あなたの娘です。
 小さな何も知らぬ幼い子供を、あなたはまたしても放り出すのですか。
 私を、苦しみの中に!
 遠く微かに、エメラルドは自分の魂のあげる甲高い悲鳴を聞いた気がした。
 ならばもう、私は肉親などいらない。私は、永遠にただ一人生きてゆく。血族など初めから私にはなかったのだ。もう何一つ欲しがろうとなどしない!
 男が出ていった後、たった一人、エメラルドは声も立てずに歯をくいしばって泣いた。泣いて全てが流れてしまえばいい。こんな弱い心はいらない。私に必要なのはどっしりとした重く冷たい石の心だ。
 出て行った男がしばらくして別の男を伴って戻った時、エメラルドの心はもう泣いてはいなかった。
「まだ子供じゃないですか」
「確かに子供だ。だが、この歳で金のために身を売る子供だ。見知らぬ異国では他に稼ぐ方法もなかったのだろうがな。金の半分は支払い済だから残りは自分で払ってくれ。珍しい緑の瞳だ。楽しんでくるんだな」
「すいませんね。……本当に、緑だ。なんて珍しい。おまけに愛らしいときた。素晴らしいね。一晩よろしく、お嬢さん」
 新たな男が早速彼女を組み敷いたその下から、出ていこうとした男をエメラルドは最後に呼び止めた。この部屋で男に対して初めて発せられた言葉は、父に向けた初めての彼女の言葉でもあった。
「あなたの奥さんは?」
 乳をくれたこともない私の母は? 父と同じく、一度たりとて会いに来ない私を捨てた母は、一体何をしているのだろう。
『こんな緑の眼をした子供が、私の子供の筈がないわ!』
 どうしてこんなにもはっきりと、覚えているはずもない母の言葉が心に浮かぶのだろう? 覚えているはずのない冷たい青い眼が、なぜこうもくっきりと瞼に映るのだろう。
「とうの昔に別れた。でなければこのような所に来はしない。ましてやこんな娘がいると知っていれば、なおさらだ」
 振り返り、若い男の手によって押し広げられていくエメラルドの胸元を冷やかな目で眺めながら彼は言った。
 その侮蔑の視線は何。この男を連れて来たのはあなたでしょう? なぜ立ち去らないのです。呪われた自身の娘が何処まで堕ちたものか、ここで見届けるつもりですか。
「やだなあ、行かないんですか。見たいならそれでもいいですけどね」
「当てられる前には出ていくさ」
 首筋に掛かる酒気の混じった生暖かい息と、いつまでも慣れることの出来ない大きな男の掌、意識が肉体から離れている時には疎ましく苦痛なだけのそれらが今は我慢ならない。その上、今夜はそれを見ている男がいる。
 口づけに覆われていくこの小さな身体が見たいのですか。これは己の所業の結果ではないのですか、あなた達が私を捨てたから!
 男が服を脱ぐのが見えた。
 どうして父のために自分がここで苦痛に耐えなければいけないのだろう。あのまま帰ってくれれば、今夜はゆっくり眠ることが出来たかもしれないのに。どうしてこの男が自分の養い手に渡す幾ばくかの金のために、そして名のみの父に歪んだ満足感を得させるために自分が我慢しなければいけないのだろう。納得できる理由などただの一つも見つけることが出来なかった。
 あなたは私の父であることを放棄したのだから、ここで私を観察する権利はないはず。
 エメラルドは叫ぼうとした。
(出ていって!)
 男の唇に塞がれて声は出なかった。そのまま押し込まれる濡れた肉が口中を蹂躙する。どうしてこんな子供相手でも構わない男が多いのか、まったく理解できなかった。少しばかり珍しければ豊かな身体を持つ大人の女でなくとも構わないというのか? 元々脱がしやすい形に作られている「仕事着」はあっと言う間に取り去られ、男の指が彼女を探るように動きだした。熱く煮える血が頭に昇るのを感じ、ろうそくの明かりに晒された素肌が羞恥に燃える。
 ゆらり、と何かが動いた。自分の中で何かが蠢くのがわかった。視界が緑色に染まり、それはすぐに赤く変わった。頭の中が熱い。もう何も考えられない。頭の中にある感情はもう、自分でも何なのか判らなかった。拒絶……憎しみ、嫌悪、それとも怒り───判らない。あるいはその全てなのか、ただただ激しく、熱い感情。
 男の呻きが二つ重なった。そして妙に温かな重いもの、若い男の体がエメラルドの上に落ちてきた。
 戸口に男が倒れていた。
「化け物め……」
 呟いて息絶えるのをエメラルドは男の重みで動けぬまま見ていた。両親が、そして周囲が忌み嫌った緑の瞳を見開いて、その目に父親の死を焼き付けていた。
 そして何故かは判らぬままに、エメラルドは自分が父親殺しの罪を背負ったことを理解していた。何がどうなって彼らが死んだのかは全く判っていなかったのだが。
(その異形の瞳でいつかおまえは人を殺すだろう)
 あの言葉は、ひょっとしたら正しいのかもしれない。エメラルドはその後、女の知り合いに引き渡され、さらにそれから彼女を緑の森に捨てようとした無責任な男の家族に預けられた。男のところには案外長くいたのだが、それは結局、エメラルドを放り出すのさえ男が面倒がったからに過ぎなかった。あの家の女たちも今頃は男の行方を探していることだろう。鬼の棲む緑の森の土の下、木の根に絡めとられて干からびつつあるとは夢にも思わないのだろうから。


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