緑柱石の瞳

−5−

 ある日のこと、ベリルが珍しくエメラルドの所に顔を出すと、彼女は書き物机の前に座ったままうつむいていた。
「何をしている?」
「何も──」
 エメラルドは答えた。机の上にはかつて屋敷にいた誰かが昔書いたらしい緑の森の地図が広げられていた。
 もちろん、森全体のものではなく、屋敷の周辺だけだ。ここは人間が一人で歩き回って無事で済むような森ではない。
「どうした?」
「読めないの」
 エメラルドは言った。地図の上には緑の森、その中央にはこの屋敷があり、そのすぐ近くに泉、そしていくつかの小道がある。
 ベリルはエメラルドの隣に立ち、それらを一々指さして教えてやった。この小道をゆくと、大木が取り込んだ人間の右手だけが幹からはみ出して白骨になっているのを見ることが出来る。跡の残るのを好まないこの森の木々にしては珍しいやり残しの一つだ。この辺りで空を見上げれば、若木のときに引っ掛かったまま数百年も経った頭蓋骨が、一本の木の枝に見られるだろう。森から出る一番の近道を知ろうなどとは思わぬことだ。どのみち我の許可無くして出るには数日かかるだろうがな。森は人を外に出したがらないのだから。
「外に出たいとも思いませんけど」
 エメラルドは陰鬱に言った。
「私はほとんど字が読めない。自分で地図を作ろうと思って書くものを探していたらこれが出てきた。でも私にはここに書いてある文字が読めない。この歳まで、私は一体何をしていたのだろう、こんな単語一つ読めないなんて」
「そのようなこと──」
「どうでもいいことですか?」
 エメラルドのその声は湿っていた。こんな思いを彼女は何日抱えていたのだろう。育ての親ひとつで人間の子供の育ち方はどんどん不公平に変わってくるのだ。生まれながらに何もかも与えられている緑の鬼とは違う。
「どうでも良くはない、そうお前が思うのならば良くはないのだろう。知識を望むのならば、来るがいい」
 ベリルは部屋を出、もと来た屋敷の右半分に通ずるドアを開けた。そしてためらいがちについてくる少女に向かい、微笑んだ。
 一階のドアの一つを開けるとそこは広い書斎。置いてある書籍の一部はやって来た人間が森に持ち込んだものだったが、半分以上は彼自身よりも古い。湿気と年月にやられたものは捨ててしまったが、まだ判読できるものはある。
「この屋敷は遙か昔、千年以上昔にこの地にあった国の女王の離宮だった」
 ベリルは言った。誰も知らない、今ではこの森の木々しかその時代を知ることのない古い古い話。
「緑の鬼は女王の気に入りの愛玩動物だったのだ。だが、いつか緑の鬼は女王を殺し、この森の主となった。当時のものはもうほとんどないが、皆無ではない。その歴史、紐解いてみたくはないか?」
 エメラルドは中に入り、棚に並んだおびただしい数の本を見回した。書斎にだけはこの屋敷の半分を覆った植物がまったく入り込むことなく、人間の使う書斎と変わらぬ感じを残していた。
「でも私には──」
 数に圧倒され、怖じ気づいたエメラルドを無視してベリルは一冊の茶色い皮の表紙の本を抜き出した。中を開いて確認をする。色あせた、だが精緻で美しい図版のたくさん載った詩集だ。多分昔有名だった人間の詩人のものだろう。いつの時代も書物だけは、この緑の森に入ってきたもの全てが屋敷の中に持ち込まれてきた。必然的に、その頃多く出回っていたものの内の幾つかがこの書斎に納まることになる。
 詩集を手渡しながらベリルは言った。
「文字が読めるようになりたいのではないのか? もっとも、今の時代の人間の言葉とは多少違うかも知れぬな。それでもここにある本を読むのには充分だろう」
「ベリルが……」
 教えて、くれるのですか。驚いた様に見開かれたエメラルドの緑の瞳をベリルは快く見つめた。そう、自分のものではない緑色の瞳を側で見ているのも悪くはない。
「我の目覚めている時だけで良ければの話だが。眠りの邪魔をしないと約束できるな?」
「はい、決して」
「良い返事だ」
 期待を込め、それでもおとなしく答えたエメラルドに彼は笑みをもらした。自分も物好きな事を考えたものだ。そうではないか?
 だが暇潰しにはなる。エメラルドは言葉が判らない訳ではない。だから文字と言葉を結びつけるまでにはそう時間はかからないはずだ。ある程度判るようになれば自分で辞書を調べることも出来るようになる。それまでの間ぐらい自分の手を煩わされたからといって、たいしたことではない。時間などいくらでもある。
 聞けば、エメラルドがかろうじて書けるのは自分の名前くらいのもので、読めるのは買い物などで必要に迫られて覚えたパンや肉、野菜の名前などの単語がせいぜいなのだという。ということは教えれば覚えはするはずで、それは助かる。
 二人は一冊の詩集を手に書斎を出た。教師役を勤めた緑の鬼など珍しいだろうと、思ったところでそれを責める歴代の緑の鬼などこの世には一人として生きてはいないのだった。


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