外界げかいの娘 1


 彼女は彼を虜にした。
 なんて彼女は素敵なんだろう。
 前の恋人を失ったばかりの彼の目に、彼女は女神のように目映まばゆく見えた。
 最初から僕には彼女しかいなかったのに気付かなかったなんて。
 僕は間違っていた。
 あの女との全ては忘れよう。

◇      ◇      ◇

 最初は、一本の無言電話だった。
「もしもし」
 母子家庭に育ち、現在一人暮らしの真夕まゆは電話で自分から名乗る事はしない。
 電話の向こうは無言だ。
「もしもし?」
 もう一度問いかけて何も応答がないのを確認すると彼女は電話を切った。そして、特に気にする事もなく、その日はそのまま忘れた。
 それが、二月半程前の事。
 その後一箇月は週に一回か二回無言電話が一本ずつ、それから一日置きになり、そして夜のばらばらの時間に鳴っていた電話はやがて、彼女の帰宅後しばらくすると鳴るようになった。
 彼女の声を聞くのが目的のように電話を切る事もなく、無言のまま電話の向こうで息をひそめている。留守番電話にしておくと、彼女が出るまで何度も電話が鳴るのだ。
 これはひょっとしてちょっと不味い状況かもしれない、と思い、どうせ自宅の電話を使ってやりとりする相手は少ないので電話番号を変えた。携帯電話に掛かってきた事はないので、携帯電話の方は大丈夫だろう。
 単なるいたずらだったとしても、電話の音に悩まされるよりはずっとましだ。
 母親には番号を変えた事だけ知らせた。無駄に心配させる事は無い。友人達はどうせ携帯電話とメールで連絡を取り合っているからほとんど関係がなく、新しい番号は知らせずに自宅の電話が使えなくなったと言っておいた。
 大学卒業後に東京に出てきて就職した彼女は、こちらでは職場以外の友人は同じく郷里から出てきた聡美くらいしかいない。聡美には事情を話し自宅の番号も教えたので、新しい電話番号を知っているのは母親と聡美、そして会社だけになる。
 それからしばらくは電話もぱたりと止み、何の問題もない静かな日々が続いた。
 すっかり安心していた一週間前、帰宅するとファックスと兼用である電話が鳴り、母親だろうかと思いながら何気なく受話器を取ると、ファックスの電子音が響いて受信を始めた。
 一番上は受け側の機能で印字された受信日時のみで、相手方のファックス番号や名前などは入っていない。

『おかえり』

 A4サイズの紙に印字された無機質なゴシック体の文字。
 一番左上に4文字書かれたきり、その下は真っ白な空白。そして一番下に一行。
『ひさしぶり。寂しかった?』
 背筋が寒くなった。
 真夕は仕事は普通の事務職で、不特定の人間と接する訳でも無いし、番号を変える前も仕事帰りに寄り道をしてもしなくても関係なく彼女の帰宅を見計らったように電話が鳴っていたことを考えると、職場は関係ないだろうと思う。だが、今の新しい番号を知る手段は職場か聡美か母しかない。
 念のため聡美に電話をすると、丁度恋人である島本と食事中だったようなのでそのまま電話を切った。聡美は頼れる人がいていいな、とほんの少し羨ましく思う。聡美が真夕の立場だったら、きっと島本が守ってくれるだろう。
 真夕とてアメリカ人の祖父を持ち、長身と秀麗な顔立ちで人目を引くので声を掛けてくる男は少なくないが、どうもこれといった相手がいなかった。母も離婚して一人で真夕を育ててきたし、どうも男運が悪いのは親譲りではないかという気がする。ストーカーなどその最たるものではないか。
 ストーカーらしいと同僚に相談すると、おそらく今の段階では警察も当てにはならないだろうと言われたが、それは真夕も予想はしていた。だが事前に既成事実として相談しておいても損は無いだろうとも言われ、休日に警察に行く事にする。
 それから二日間、無言電話はあったがファックスは入らなかった。
 電話は何も言わないが、時折呼吸音や衣擦れらしい音がする。テレビや外の物音などは聞こえない。
 自分の帰宅が把握出来るという事は同じマンションの住人ということも考えられるだろうか、と思ったがそれでは新しい電話番号はおろか以前の電話番号も知っているのはおかしい。このマンションの住人ではないはずだと己に言い聞かせながらも、戸締りはベランダの窓まで十数回確認する癖がいつの間にかついていた。
 そして再び電話が鳴るようになってから四日目。
 帰宅して電話が鳴ったので、留守番電話を解除しないまま放っておくと今回は電話ではなかったようでファックスに切り替わり、用紙が吐き出されてきた。
『金額わからないと困るだろうから返しておくよ』
 真夕は一瞬動きを止め、それからたった今テーブルの上に置いたばかりの、郵便受けから回収してきたダイレクトメールの束に目を落とす。
 その中の一通。
 茶封筒におそらくパソコンを使って印字したらしい宛名があるきりで切手も何も貼られておらず、差出人の記載もないものがあった。
 鋏で封を切り、ごくりと唾を飲み込んで中身を取り出す。
「……!」
 固定電話の請求書。
 そういえば届いていなかった。いや、届いていなかったのではない、届いたものをマンション入口の郵便受けから抜き取られたのだ。
 新しい電話番号を確認するために。
 顔も見せない「彼」はこのマンションの前まで来たのだ。
 そして電話をかけては真夕の声を聞き、何か言いたい時は声を発することなく発信元も印字せずにファックスを送ってくる。請求金額がわからないと困るだろうなどと親切ごかしに用の済んだ請求書を返してきて、真夕が最も困っている自分の行動には気付こうともしない。
 胃がむかつく。吐き気がする。
 真夕の近くに「彼」はいる。
 再び電話が鳴った。
 留守番電話が応答を始める前に咄嗟に受話器を取り、叫んだ。
「いい加減にしてよ、誰なのよ!」
「……真夕?」
 一瞬の沈黙の後、戸惑うように問いかけてきた声は、母のものだった。
「あ……」
 力が抜ける。真夕は床に座り込んだ。
「ママ」
 心配を掛けるのが判っていても、今の精神状態で母に黙っている事は出来なかった。真夕は促されるままに、少しずつこれまでのことを話し始めた。

◇      ◇      ◇

「……もしもし」
 そっと彼女が問いかける。
 そんなに小さな声で言わなくてもいいのに。彼は思う。電話の声なんて、隣近所に聞こえやしないよ。
 彼女がドアの向こうに消えてから少し時間を置いて電話をしたから、今日はもう彼女はすっかり寛いでいるはずだ。
「誰?」
 震える声が囁く。ああ、いい声だ。僕は喜びに身震いする。
 情熱に掠れる彼女の声がたまらなく色っぽい。その声を出す彼女の口を塞ぎ彼女を僕でいっぱいにしたい。
「……」
 電話の向こうで彼女が沈黙する。
 もっと話してくれ。君の声が聞きたい。
 けれど、いつの間にか電話は切れていた。
 今日は電話をしたのが遅かったから、彼女が怒ってしまった。
 彼は苦笑する。
 でも、怒った彼女も素直で可愛いんだ。僕にはわかってる。
 彼は一人微笑んで脳裏に浮かぶ彼女に呟いた。
 ごめんよ。また明日。

◇      ◇      ◇

 翌日の土曜日の昼過ぎ、郷里から母が出てきた。
 仕事があるため明日の日曜の午後には帰るという。それでも、真夕にはとても心強かった。
 駅から一旦電話を掛けてきて真夕がいるのを確かめると、母は真夕のマンションまでやってきた。ここには引っ越しを手伝ってくれた時に来ているから迷う事もない。
 中に入るなり電気店で購入してきた盗聴器や盗撮器の発見器で隅々まで調べて何もないのを確認すると、「どうせそんなところまで気が回ってないんでしょう」と防犯ブザーを真夕に手渡す。
 ストーカーらしき相手からの電話は鳴らなかった。母が来ているのを知ったのだろうか。どうやって? マンションの入口か、それとも真夕の家の玄関を見張っているのだろうか。
 だが電話が鳴らないのだけはありがたかった。
「携帯の請求書、持ってきたけどこのまま持って帰るわね」
 母は封を切っていない封筒の束を真夕に見せた。そう、携帯電話は学生の時から変えていないので、請求書の送り先が実家のままになっている。おかげでなんとか携帯電話の番号にはおかしな電話は掛かってきていない。
「うん、通帳見れば判るから大丈夫」
 真夕は力なく微笑んだ。
 冷蔵庫にろくな食材がない事に文句を言われながら一緒に買い物に出掛け、久し振りに母の手料理を食べる。一人ならば出来合いのものを買ってしまった方が簡単だし食材を無駄にすることもないが、日保ちのするものを何種類か作り、冷凍出来るものは冷凍して二三日はちゃんとした食事が出来るようにしてくれた。
 それだけでもしみじみと有難いと思う。
「私、こっちに出てくるんじゃなかったかな……」
 自分は強いと思っていた。一人で都会に出てきても大丈夫だと。
 けれど、こんな風に心当たりもない顔の見えない相手につきまとわれる事など想像してもいなかった。
「いつでも帰ってきていいよ。でも、相手と闘ってから考えなさい。まだこちらには切り札があるから」
 そう言って、母はバッグの中から古びた守り袋を取り出した。
「これが、私達の切り札」
 テーブルの上に置き、指先で真夕の方に押して寄越した。
 寺社の名前は入っていない、着物の端切れで手縫いして作ったような守り袋だ。
「これ、何?」
 手にとって母の顔を見ると、彼女は微笑んだ。
「助けを呼ぶの。その中に、連絡先と『助力を請う』って書いた紙を入れて……」
「助力をこう?」
 何かのまじないだろうか。
「『助けて』でも何でもいいのよ、趣旨が伝われば。とにかくメッセージと居所を書いた紙を折ってこの中に入れて、お寺でもお稲荷さんでもどこでもいいから供えてきなさい。あまり人のいる所や教会は駄目よ。道端のお地蔵さんでもどこでもいいから。ちゃんとお参りしてね」
 いつから母はそんなに信心深くなったのだろう。
「何それ……今そんな場合じゃ」
「いいから、やりなさい。住所と名前、一応電話番号も書いて」
「今そんな危険な事、出来る訳ないでしょ!」
 真夕は叫んだ。それはあまりにも、彼女の直面する現実からかけ離れている。
「何言ってるの、住所も電話も知られてるから困ってるんでしょ。大丈夫だからやりなさい。三日もすれば結果が出るから。それにね」
 母は一旦言葉を切った。
「ママも一度助けてもらったの。おばあちゃんは使わなかったけど、おばあちゃんのおばあちゃんも使ったそうよ。それは、必ず助けてくれるの。だからやりなさい。理由は後で判るから」
 気休めでも冗談でもなく、どうやらこれは真面目な話なのだ、と真夕は悟って手の中の守り袋に目を落とす。
「お供えしたら後でそれは戻ってくるから、大事に持っていて。将来真夕の子供に渡すために、ね」
 結局、母の勢いに押し切られて頷いてしまった。
 翌日の日曜は、無駄だと思うけど念のためと母は言い、これまでに届いたファックスの用紙を持って警察に被害届けを一緒に出しに行ってくれた。そして見回りの際には気をつけてくれるという言質を取り付けると、明日から母も仕事があるのでそのまま帰って行った。守り袋については必ず言われた通りにするように何度も繰り返し。そして何かを懐かしむような顔で呟いた。
「仕事がなければもう何日かいられるけど、でもそうしたら私が年を取ってて幻滅されちゃうもの」
 真夕にはさっぱり訳が判らなかったが、言われた通り実行することは約束して母を送り出した。
 一人になると、さして広くもないこのマンションの部屋がなんとなくいつもよりもがらんとして寒々しい気がする。心細い。
 突然、部屋の中で電話が鳴り響いた。
 びくりとして電話の方を振り返る。
 きっとあいつだ。
 間違いない、「彼」はどこかで見張っている。
 鳴りやまない電話に震える手を伸ばす。
「……」
 黙って受話器を耳にあてる。電話の向こうは沈黙していた。
 叩きつけるように電話を切った。
 すぐにまた電話が責めるように鳴り、気が狂いそうになる。
「もしもし!」
 受話器を取り、叫ぶように言っても答えは無かった。
「もう、やめて……」
 震える声で呟くと、電話の向こうで荒い息遣いが一瞬聞こえ、電話は切れた。
 真夕は電話機から線を引き抜き、床に座り込む。
(それは、必ず助けてくれるの)
 母の言葉が甦り、顔を上げるとテーブルの上に置かれた守り袋が目に入った。
 本当にこれで何かが変わるのなら、それが何でも構わない。
 のろのろと真夕は立ち上がり、そっと守り袋を手に取った。


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「外界」と書いて「げかい」とふりがな振っているのは、わざとです。
 本来こんな読み方はありません、念のため(でもここではそう読んで欲しいのです)。
 ……「げかい」という読み方がよくある誤読なのだと知って、間違えてると思われるとあれなので書いてみました(^^;)

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