外界の娘 2


「助力を請う……女性の字だね。白鬼と書いてあるけど、白鬼のかい?」
「……そのようだな」

◇      ◇      ◇

 守り袋は明るい色の布地で作られている。随分と古そうだ。
 紐を緩めて口を開くと、中に入っていたのは折り畳んだ紙片と、驚くほど小さな細かい字で「白鬼」と墨で書かれた何かの動物の牙だった。
 稲荷がどうとか言っていたのを考えると、ひょっとしたら狐の歯なのだろうか。それにしては大きいような気がするが。
 古ぼけた和紙を開くと、それは墨で描かれた不動明王の仏画だった。
 その上に書かれた文字の方は達筆過ぎて読み取る事が出来ない。こちらは密教だろうか? あるいは、宗教的な意味などないのかもしれない。
 母の真意が掴めないままメモ用紙に言われた通りのメッセージと連絡先を書き、翌日勤務先の近くにある百貨店に立ち寄ると、屋上の片隅にひっそりとある稲荷神社に供えてきた。不動明王なら寺の方がいいような気もするが、生憎行動範囲に思い当たる場所がない。
 確かこういう場合の作法は二礼二拍手一礼……と思い出しながらぎこちなく拝礼し、そそくさと帰宅した。
 三日もすれば、と母は言った。本当に三日のうちに何かが起こるのだろうか。顔も知らぬ無言電話の主の行動がエスカレートしないことを祈るしかない。


 帰宅すると電話が鳴り出す。
 自分が出るまで相手は諦めないと判ってはいるが、すぐに出る気になれない。じっと電話を見下ろしていると、別のところで別の音が鳴り出した。携帯電話だ。
 真夕は迷わずそちらを手に取った。発信は聡美だ。
「もしもし」
「こんばんは。大丈夫?」
 電話番号を変えてから聡美は心配して度々電話を掛けてくる。
「うん、一応ね」
 背後では電話が鳴り続けている。
「電話鳴ってるけど、例のやつ?」
「……そう」
「本当に気をつけてね。前に会社の同僚が会社に来なくなって家出じゃないかって言ったじゃない、三か月位前かな。今休職扱いになってるんだけど、家出じゃないかもしれないんだって」
 聞いた瞬間、胃の中に冷たい物が落ちてきたような、不気味な不安が彼女を襲った。
「詳しい事わからないけど、犯罪に巻き込まれてる可能性もあるみたい。真夕も気をつけて。ストーカーなんて、何やるか判らないんだから。何なら私のとこに来てもいいし、週末なら私泊まりに行くよ」
 聡美も心配している。犯罪は決して遠い所の話ではなく、すぐ身近に潜んでいる。
 電話のベルが止み、留守番電話に切り替わったが切れたようだ。
「ありがと。土曜日うちの母がこっちに来て、一泊して昨日帰ったんだけど、土曜日は電話なかったの。母が帰ったら途端に電話が鳴ったから、やっぱり私見張られてるかもしれない」
 再び電話が鳴り出した。真夕は電話に歩み寄り、音量を下げる。
「やだ、じゃあやっぱりこっちにおいでよ。金曜に会社帰りにそのまま来てもいいし、土曜でもいいし。それともいっそしばらくうちに来てそこから会社行く?」
 有難いが、それで聡美のところにまで迷惑が掛かったらどうすればいいのだろう。家以外の場所では見張られていないという保証はどこにもない。
 いっそのこと、泊り込むなら警察にしたいところだ。
 警察はホテルではないけれど。
 くだらない事を思いながら、真夕は聡美に礼を言い、その気になったら連絡すると言って電話を切った。
 二人の会話の後ろで鳴り続けていた電話はまた一旦切れて、三回目の呼び出しを始めていた。

◇      ◇      ◇

 その二日後の水曜の夜。
「こんばんは」
 真夕は帰宅途中、改札を出た所で見知らぬ男性に声を掛けられ、ぎくりとして立ち止まった。
 帰路につく人々で賑わう駅の構内とはいえ、今の彼女には見知らぬ他人が接触してくることは脅威でしかない。ポケットの中で防犯ブザーを握り締め、駅員か周囲の人間に助けを求める心の準備をする。
 そんな彼女の強張った表情に、相手は宥めるように一歩下がった。
三嵜みさき真夕さんですね?」
 ストーカーにしては澄んだ目をした青年だった。おそらく年は真夕より上かもしれないが、さほど変わらないだろう。二十代半ばから後半といったところか。手入れされた長めの髪を後ろでまとめているところを見ると普通の会社勤めの仕事とは思えないが、カジュアルな服装も小綺麗でいたってまともに見える。
 少なくとも、彼女がストーカーとして想定していた小太りで眼鏡で「伸ばした」というよりはただ「伸びた」ような半端な髪型で、腰にくたびれたネルのチェックのシャツを結んでいるような、あまり近付きたくないタイプの男ではない。
「……はい」
 警戒しながら答える彼女の前に、見覚えのある守り袋が差し出された。
「冴木といいます。『助力を請う』……求めに応じて馳せ参じました」
 驚いて目を見張る彼女の前で、青年は安心させるように穏やかに微笑んだ。


「え……」
 守り袋を受け取って、真夕は茫然と彼を見上げた。
 頭の中で「馳せ参じる」という言葉の意味を理解するのに二秒かかった。その間を彼は別の意味に受け取ったらしく、真夕を不安がらせないように静かに言った。
「これだけではご心配ですか? では、お母様に電話をして下さい」
「あの……」
「いいから、掛けて下さい。私の事は彼女が保証してくれるでしょう」
 言われるままに真夕は携帯電話を取り出した。人の邪魔にならないように構内の太い柱の側に移動し、母も帰宅しているかわからない時間だったので携帯電話に掛ける。もちろん、その番号が相手に見えないよう、注意だけは怠らなかった。
 すぐに母は電話に出てきた。
「どうしたの、何かあったの?」
 真っ先にそう聞いてくる母に、やはり相当心配されているなと申し訳なく思う。
「私今駅にいて、そしたら男の人が待っていて……お守り持ってるの。冴木さんて人。で、ママに電話すればわかるからって」
 どう説明すれば良いのやら判らずに、しどろもどろ真夕は話した。
「つまり、彼がストーカー本人じゃないって言ってあげればいいの?」
「……だと思う」
「彼に代わって」
 そう言われて真夕は渋々電話を相手に手渡した。母に言われたとはいえ、他人に電話を預けるのにも相当の勇気が必要だったが仕方がない。
「もしもし。真理江さんですか? ……お久し振りですね、お変わりありませんか」
 冴木は母の名を知っていた。母と彼は知り合いらしい。彼の声は穏やかで誠実そうではある。
「……ああ、そういう事ですか。判りました、心配ありませんよ」
 母が何を言っているのかは判らないが、彼は穏やかに微笑んで話している。
「あなたにもお会いしたかったのですが。……そんな事はありませんよ。それに、あなたも何かあればいつでも呼んでいいんですよ、何度でも。あなたも、我々の愛しい子供です。白鬼が復活したので今度行くのは私ではないかもしれませんし、勿論困った事など起こらない方がいいんですが。ええ、ではお嬢さんに代わりますね」
 どうぞ、と電話を渡されて真夕はそれを受け取った。
「もしもし、私」
「大丈夫、彼は本物だから安心して任せていいわ。全部いいようにしてくれるから。でも何か不思議な事があっても驚かないで。心配しなくていいから。じゃあまた後で連絡しなさい。明日でもいつでもいいから。ね」
 晴れ晴れとした母の声。
「ねえちょっと」
 電話を切られそうになり焦って呼び止めると、母は真夕に言い聞かせた。
「本当に大丈夫だから、全部彼に任せなさい」
 そう言って母は一呼吸間を置き、続けた。
「……彼はあなたと血のつながった遠い親戚だから」
 思いもよらぬ言葉に真夕が絶句した隙に電話は切れてしまった。
 親戚?
 真夕は携帯電話を手に冴木と名乗った青年の顔を見上げた。
 少なくとも、名前以外全く記憶もない父親の名字とは違う。
「どうしました?」
「……いえ」
「納得していただけたのなら、行きましょうか」
 口の端に柔らかく笑みをのせると、冴木は先に立って歩き出した。
 慌てて真夕は彼の後を追う。そうしながら、彼が髪を結んでいるのが通常髪をまとめるのに使うようなヘアゴムでも、もちろん女性が使うようなヘアアクセサリーでもなく、和小物の店か呉服屋にでもありそうな平織の黒い紐だということに気付く。
 珍しいと思いながら真夕は彼の横に並んだ。
「場所、わかるんですか」
「ええ、もう一度行きましたから」
 にこりと笑って、彼は真夕が守り袋の中に入れたメモ用紙をジャケットの内ポケットから取り出した。
「そうなんですか」
 隣を歩くと、女にしては身長の高い自分よりもまだ相手の目線が上にあり、なんとなく安心する。自分と同じ高さの目線の男性はごまんといるが、更に高い者は限られている。
「勝手ながら、先に部屋に入らせていただきました」
 平然と冴木が言い、真夕は再び言葉に詰まる。
 マンションの前まで行った、という事ではないのか。見ず知らずの男に管理人が合鍵を渡したのだろうか。そんな事では困る。
「どうやって……」
 あるいは、実は彼は探偵だったり刑事だったり鍵屋だったりするのか。真夕は思わず馬鹿な想像をする。
 部屋は片付けてあったが、母に大丈夫だと言われても見ず知らずの男に部屋に入られてはいい気はしない。
「心配ありませんよ、それに部屋の中は何も調べていません」
 青年は微笑む。ああ、少しやっぱり常識から外れているかも、と真夕は頭が痛くなる。本当に彼に任せていいのだろうか。
 マンションの前まで来ると、彼は真夕に囁いた。
「このあたりから見張られていますね。玄関もこちら側に面していますから、あなたの所に来た者は全て見られていると思っていいでしょう」
 思わず真夕が彼を見上げると、冴木は安心させるように笑った。
「大丈夫。いつも通りに郵便を取って。行きましょう」
 中に入り、言われた通りに郵便受けを覗いて何通かの郵便を取ると二人でエレベーターに乗った。
「マンションはここくらいですから、この辺りの一戸建てかアパートに潜んでいるでしょうね」
 そしてエレベーターを降りると真夕に手を差しのべた。
「鍵を貸して下さい。それから、手を私の腕に掛けて」
 真夕は一瞬躊躇し、だが疑念を振り払って言われた通りにした。今までも予想はしていたけれど、改めて言われると、見知らぬ男の視線がどこかから肌に突き刺さっているような気がする。冴木はくすりと笑い、二人で歩いていくと真夕の部屋のドアを開けた。
「帰ってきたよ」
 奥に向かって声を掛ける。まだ誰かいるらしい。部屋に残っていたのか。
 三和土には重そうなごつい靴が脱いであった。
「無事か?」
 奥から声が返ってきた。
「大丈夫」
 玄関のドアを押さえて彼女に入るよう促し、後から入ると真夕に言われる前に鍵を掛ける。そして先に立って廊下を行くと、部屋のドアを開けた。部屋の中は真っ暗だった。明かりを点けていない。
 その瞬間、電話が鳴る。
「……!」
 びくりとする彼女の肩に安心させるように手を置くと、彼はもう一方の手を伸ばして部屋の電気を点ける。そして部屋の中にいた人物に言った。
「昨今はこういう輩もいるようだよ。相手に顔を見せる事も出来ない癖に彼女は自分のものだと思っている可哀相な男が」
「ふ……ん」
 ジジジと音を立てて吐き出されたファックス用紙は裏側が上になっている。紙を切る音の後、白い面を見せているその紙を取って表に返し、つまらなそうに眺めるとその人物は呟いた。
「馬鹿馬鹿しくて涙が出そうだ」
 真夕は、唖然としてそれを見ていた。
 今回はパソコンで文字を打ち出す余裕もなかったのか、『その男は誰だ?』と書き殴られたファックス用紙をテーブルの上に放り出した青年は、彼女の横にいる青年以上のインパクトがあった。
 これはパンクファッションとでも言うのだろうか、真夕にはよく判らないがどう見ても堅気ではない。無意味な場所にあちこちジッパーのついている黒いスリムなパンツに長い脚を包み、黒のベルトとじゃらりと下がった銀色のチェーン。白いTシャツの背中にはリアルなタッチの般若の面がプリントされている。般若の下の方から前に回り心臓の位置で牙を剥いているのは竜神だ。胸には黒い革紐のペンダントが下げられ、シルバーの金剛杵のモチーフが鈍く光っていた。
 腕には鋲打ちのゴツゴツとした黒いレザーブレスレット、ここまでならまだ納得できるが、更には真っ白な長髪。冴木の髪は並の女のものよりも艶やかで美しいが、こちらはそれよりも遙かに長く、ばさりとした不揃いの長さの髪が腰に届いていた。額の上には黒いサングラスをはめており、そしてこちらに向けられた瞳は、真っ赤だった。
 アルビノ、だ。多分、おそらく。
 髪は染めている可能性もあるが、この瞳の色はカラーコンタクトで出せる赤とは違うものだ。
 ただ、それ以外は変わったところは見受けられず、肌の色も普通に見えた。
 不思議な事があっても驚かないで、という母の言葉を自分に言い聞かせ、気にしない事にする。年は多分冴木と同じ程、つまり真夕と同じか少し上ぐらいだろう。良く見ると顔も似ている気がする。身長も同じくらい高い。
 白髪の青年はゆっくりと真夕の方に歩いてくると正面で立ち止まった。無表情でしばらく彼女を見下ろし、そしてやがてにやりと笑う。
「どことなくみおに似ているな。まだ、俺の子が残っていたか」
 それは、この状況下には最もそぐわない言葉と真夕には思えた。


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