鬼面 前編
それは、蔵の片隅にひっそりとしまわれていた。
白檀の箱に納められた鬼の面。
その由来は誰も知らなかった。亡くなった祖父でさえ。
祖父母も亡くなり、百合がふと手に取ったその箱の中で、面がかたりと音を立てた。
春休み、百合は大学の友人である美野里と二人で古い寺社を巡っていた。
京都や奈良のように有名な寺社はないが、古い落ち着いた街並みに似合う小さな古寺や神社があちこちに点在しており、ゆっくりと気楽に歩くには丁度良い街だった。
「次はこの辺何があるの?」
美野里に聞かれ、足を止めて地図を覗き込む。
「
そう言って、百合は右肩から掛けたバッグを左肩に掛け直した。そこには白檀の箱が入っている。
「ああ、鬼面寺」
美野里は思い出したように言った。追儺寺には正式ではないがいつの頃からか鬼面寺という呼び名がついていた。鬼の面を納め、供養をしているのだ。
「そのお面ってそんなにヤバそうなの?」
美野里は興味津々といった様子で百合に訊ねる。
百合は今回その追儺寺に面を納める事も目的の一つにしていたのだった。
「それは判らないけど……持ってると気持ち悪いの。お寺に着いたら見せてあげる」
箱の表に「鬼面」と書かれてはいたが、能面でもなければ狂言の面でも、ましてや神楽面でもなさそうだ。その手の面よりも幾分か写実的に作られ、それに、そもそも面としては機能しない代物なのだ。
鬼面と言っても般若のような恐ろしい形相ではなく、鬼と言うよりは普通の男面に白髪と角を付けたような感じで、しかし目が開いていない。穴が開いていないので面を付けると見ることができないのだ。だから通常の面として使うために作られたものではないだろう。そして本来穴が開いているべき黒目の部分は赤く染め抜かれていた。
誰が何の目的で作ったのかは全く判らない。箱には他に何も書かれていないのだ。
「どんなの?」
「白髪の鬼の面……かな。箱に入れてバッグの中にある分には平気なんだけど、直に持つと気分が悪くなるんだよね」
初めて箱に気付き面を手にした時はすぐに取り落としてしまった。あり得ないが目が合ってしまったような気もする。箱ごとならばまだ持っていられる。
白檀は魔を祓うというからそのせいもあるかもしれない。特に御札が入っていたり箱に貼られていた訳でもないので封印されていたというようなオカルト的なものではないと思うのだが、家の誰一人その由来を知らないこともあり、手元にあってもあまり意味がないという結論に至ったのだった。
「それマジやばくない?」
「うん、だからね」
だから、寺でなんとかしてもらおうと思ったのだ。これまで蔵の中にあっても何事もなかったが、存在に気付いてしまうと気味が悪くて仕方がない。
「そっか。じゃ、次は追儺寺ね。どうやって行くの?」
分かりやすいルートを求めて地図に目を落とした時、声が掛けられた。
「鬼面寺なら、近道がありますよ」
振り返ると、年に似合わず着物をごく自然に着こなした青年が立っていた。
長めの髪を後ろで束ねて平織の紐で結び、地味な色の着物を着ている。結婚式でもなく、成人式のごく一部の男性でもなく、日常的に袴で外を歩いている人間を百合は初めて見た。
百合の持っている地図を見下ろすと、彼は男性にしてはきれいな指先で道を示した。
「この地図には載っていませんが、こことここの間にもう一本道があります。そこをまっすぐお行きなさい。回り道をせずに済みますよ」
礼を言う二人に涼やかな笑顔を向け、青年は去って行った。
後ろから見ても袴姿がさまになっている。都会ではなかなか見られない光景だろう。
「どこかの神社かお寺の人かな?」
「かもね。着物着慣れた感じだったし」
「髪の毛サラサラだったよ。その辺の女なんか目じゃないくらい。珍しいよね、綺麗な長い髪の男の人なんて」
しかも背高いなどと言いながら、二人は目的地に向けて歩き出した。
ふと、今の青年がどこかで会った事があるような気がして振り返ったが、もう姿は見えなかった。きっと気のせいだ。そう思い直し、百合は微笑んだ。
そんな百合に、美野里は気になるように訊ねる。
「ねえ、それいきなり持って行って大丈夫なのかな?」
「連絡して行った方が良かったかな。大丈夫だと思うけど。駄目でもとにかくお願いして見てもらう」
教えられた道らしい曲がり角が見えてくる。
前を一人で歩いていた女性がそこを曲がって入って行く。赤いワンピースにまっすぐな黒髪が良く映えていた。
「あそこだね」
指差して地図と見比べ確認していると、後ろから声を掛けられた。
「鬼面を持って行くんですか?」
着物を着た上品な老婦人だった。
にこやかに百合に声を掛けて来る。
「あ、はい。鬼面寺にお納めしたいんですけど大丈夫でしょうか」
「いつでも大丈夫よ。特に今日は御開帳だし」
それはどのガイドブックにも書いてあった記憶がない。秘仏か、それとも掛け軸か何かだろうか。
何であれ、知らずに御開帳の日に来たとは運がいい。
「そうなんですか?」
「ええ、丁度良かったわね。じゃあまた後で。若い人は先に行って頂戴。私はゆっくり行くから」
上品な笑顔で言われ、二人は挨拶して再び歩き出した。
ここの人は親切だねなどと言いながら、角を曲がる。
曲がった先にあったのは、竹林の中をうねうねと蛇行する細い道だった。
「うわー、すごいねえ。ずっと竹林が続いてる」
感心したように美野里が言った。
道の両側は身長程の高さで垣根が作られており、曲がりくねってはいるが一本道であるらしい。その細道は舗装されておらず、所々に木の板が埋め込まれている以外は踏み固められ乾いた土のままだった。人が三人並ぶのがやっとの道である。簡単な地図に載っていないのも道理かもしれない。
歩き始めてしばらくしたその時、美野里の携帯電話が鳴り出した。
「非通知?」
画面を見て呟き、美野里は通話ボタンを押した。
「もしもし。……もしもし?」
首をかしげて電話を閉じた。
「どうしたの?」
「切れた。電波弱いよここ。誰だかわかんなかった。非通知で掛けてくる人って誰だろう、バイト先かなあ」
言われて百合も携帯電話を取り出してみた。百合の方は圏外になっている。美野里の携帯とはキャリアが違うのだ。
「こっちは全然駄目みたい」
二人は特に気にせず先に進む。
再び電話が鳴った。
「うるさいなあ、もう。……もしもし。もしもーし」
何か雑音が聞こえて再び通話が切れたらしい。
「何なのよもう」
ぶつぶつと文句を言う美野里に百合は言った。
「ちょっと前まで電波来てたよ。少し戻る?」
「えーいいよ。誰だかわかんないし。……就職先の会社だとまずいけど」
手を振って断る美野里の手の中で、またしても軽快な音楽が鳴り始める。
「会社って……やっぱり電波届くとこまで行った方が良くない?」
百合のように全く通じないならともかく、美野里のような状態は電話を掛ける方も受ける方もストレスになる。あまり歓迎すべき状況ではない。
「しょうがないなあ、しつこいんだから。ちょっとそこの角まで戻って来るから先行ってて。どうせ一本道だから迷わないし、お面納めるなら時間もかかるだろうし。ね?」
「じゃあゆっくり行ってるね」
百合が手を振ると、美野里は騒ぎ立てる携帯電話を手に元来た道を走って行った。
それを見送り、百合は見事な竹を見上げながらゆっくりと歩き出した。
竹林の中をゆるやかに蛇行する細道は、後方の美野里の姿も、先を行く人の姿も垣根で見えない。これがなければ竹の間から少しは見えるのだろうが、上方はともかく両脇は全くの壁のようなものだった。
それからしばらく百合は一人で道を進んでいた。
辺りは静かで、風が抜けて上の方で竹の葉を鳴らす以外音らしい音もない。
「まだかな……」
美野里はまだ追いついて来なかった。何か面倒な話だったのだろうか。分かれ道は無かったから迷う心配だけはないので、百合は気楽に先を進んでいた。
やがて道が開けて、これもまた舗装されていないが広めの道に行き当たった。そしてそれを挟んだ向かい側に、竹林に囲まれた小さな寺が現れた。
「本当に近道……」
真正面にたどり着くとは思ってもみなかった。
中には入らず、百合はしばらく美野里を待つ事にした。
そうして辺りを見回す。
本当に小さな寺だった。
狭い石段の上に小さな門構えの入口があり、石段の左右も鬱蒼と竹が生い茂っている。寺の名前も書いていないので知らなかったら通り過ぎてしまったかもしれない。ガイドブックに載っていた小さな写真とどことなく感じが違っているような気もするが、写真では石段の両脇に立てられていた
時折石段を上がっていく者があり、邪魔にならないよう手前の端に立つ百合に会釈してゆく。そのどれも洋服和服と服装にばらつきはあるが男女ともしとやかで気品のある、浮き世離れした雰囲気のある者ばかりだった。先程声をかけてきた老婦人もたどり着き、美野里とすれ違ったと百合に言うとゆっくりと石段を上って行った。
なんとなく場違いなような気がして居心地が悪く、まだやって来ない美野里と連絡が取れないかと携帯電話を取り出したがやはり圏外だった。
「どうかなさいましたか?」
声を掛けられ、目を上げるとそこに先程の青年が立っていた。ここへの近道を教えてくれた人だ。何か用を済ませてきたのか、手に平たい風呂敷包みを持っている。
「あ、あの、友人を待っているんです」
「ああ、先程一緒にいた方ですね」
彼は微笑んだ。
「中に入りませんか? お友達も迷う心配もないでしょうし、もうすぐ御開帳ですよ」
「これからですか?」
もう午後の二時を回っている。とっくに開帳しているのだと思っていた。
「ええ、それに今回はただの御開帳ではなく特別な祭がありますから」
特別な祭。
百合は口の中で繰り返した。
では今日は鬼の面ごときに時間を割いてはくれないかもしれない。なんとか納めるだけ納められないだろうか。
「このお寺の方なんですか?」
「違いますが、一応関係者ではありますね。何か?」
人当たりの良い彼の態度に勇気を得て、百合は言った。
「私、ここに鬼面をお納めしたくて来たんです。奉納とは言わないか……すみませんこういうの詳しくなくて。供養をお願いしたいんですが、どこに行けば良いでしょうか?」
彼は驚いた様子もなく微笑み、「こちらへどうぞ」と百合に手をさしのべた。
青年に手を引かれて石段を上がって行き、門をくぐると、こぢんまりとした境内と古びた本堂が正面に見えた。そして本堂の手前には何の建物かは判らない扉の閉じられた小さなお堂と鐘楼がひっそりと左右にある。
百合の横には清廉な雰囲気を持つ着物姿の青年。
着物の灰色は微妙な色合いで、銀鼠というよりは利休鼠と言った感じだろうか。袴はもう少し濃い色で全体的に地味だが、彼の若さを損なうことなく、物静かでいながら凛とした古風な男性のイメージを引き立てている。
手を引いてもらわなければ危険な程に石段が急だった訳でもないのに、なぜ自分はこの人に手を取られているのだろうという疑問は頭の中にあるが、手を離すタイミングを逃してしまっていた。
指の長い彼の手は女性のように小さくはないが、ごつごつとした男性的な手よりも随分と綺麗で、時折彼女を振り返る彼の涼やかな視線に百合は少々赤面した。
境内には数人の参拝客がいたが、ほとんどは中に入っているようだ。百合は彼に連れられて本堂に昇り、回廊を少し歩くと靴を脱いで広い畳の部屋に通された。
そこには様々な年代の男女が座って、開帳を待っているようだった。
本尊はここではないが、壁にはさまざまな面がずらりと並んでいる。鬼の面以外にも男面や天狗や狐の面もあるが鬼の面が一番多い。さすがに鬼面寺と呼ばれるだけの事はあると、百合は改めて思った。
青年は部屋の片隅に百合を座らせ、しばらく待つように言うと廊下の奥へ消えて行った。
「観光客の方ですか?」
「まあ珍しい」
数人の女性が話しかけてくる。ここにいるのは地元の人間や檀家の者が多いのだろうか。曖昧に微笑んで百合は頷いた。
「御開帳は二か月に一度でそれほど珍しい訳ではないけれど、外からのお客様は珍しいわね」
そう言ってさわさわと笑う。
決して騒々しくはない密やかなさざめき。
百合に話しかけたのは少数で、残りの男女はこちらに目を向けはしたが話に加わろうとはしなかった。知り合い同士も多いらしく、邪魔にならない程度の声で静かに話し合っている。近況を伝えあっていたりするところをみると一緒に来た訳でもなく、ここで顔を合わせたのだろうと思われた。
「私、今日が御開帳だと知らなくて偶然来たんです。何が見られるんでしょうか?」
偶然と聞いて彼女達は笑った。
「それは偶然ではなくて鬼の面が導いたんでしょうね」
鬼の面が──。
百合が鬼面を持参している事を知っているのは青年とあとは先程の老婦人一人くらいの筈だったが、誰も彼女が面を持っている事を疑っていないようだった。そういうものなのだろうか。
不思議に思い何か聞こうと口を開き掛けたその時。
「皆様、外へどうぞ」
緋色の着物を着た女性がやってくると、そう言った。
無地の緋色の着物に黒い帯を締めた、百合よりもほんの少し年上に見える女性は真っ直ぐな黒髪を背に下ろし、日本人形のようだった。
黒目勝ちの目は気が強そうに切れ上がり、きつそうだが大層な美女だ。
あれ、と百合は思う。ひょっとして自分達よりも先にこの寺への近道を入って行った赤いワンピースの女性は、彼女だったのだろうか。後ろ姿しか見ていないので断言は出来ないが、髪の長さや雰囲気はなんとなく似ている気がする。
しめやかに人々が外へ出て行く。数十年に一度の御開帳というようなものでもないためか、静かなものだ。
一緒に外に出た方がいいのか、青年を待てばいいのか判らずに躊躇する百合に、彼女が声を掛けた。
「お話は伺っております。あなたも外へどうぞ」
ゆるゆると頭を下げる彼女にどぎまぎとお辞儀を返して百合は立ち上がり、人々に続いて外に出た。彼女は後ろからゆっくりと歩いてくる。
まだそれほど暗い訳ではないのだが、いつのまにか石灯籠に火が灯されていた。だが周囲を竹林に囲まれて、心なしか仄暗く感じるこの寺では奇妙な趣があった。
見渡してもまだ美野里の姿はない。一体何をしているのだろう。
百合は鬼面の入ったバッグを抱え直した。
本堂から表に向かった右手にある小さなお堂の前に人々が集まっている。比較的着物の者が多いようだ。
「始まります」
と、不意にすぐ近くで男の声が聞こえ、びくりとして声の方を向くと、気配もなく青年が隣に立っていた。
先程とは着物を改め、紋の入っていない黒い着物と黒い袴を身に着け、そしてまとめて結んでいた髪をほどいて背に流している。
だが、そこにいるのは開帳を見に来た人ばかりで、僧侶の姿はひとつもない。
何かがひどく不自然だった。
「でも、まだ誰もお坊さんがいないみたいですけど……」
彼は関係者だが寺の者ではないと言っていたし、それらしい者は誰もいない。
「ここは廃寺です。僧侶などいるはずがありません」
ぴんと張りつめたような女の声が突き刺さった。鈴を転がすような愛らしい声と言うよりは、琴の弦を
振り返ると、緋色の着物に身を包んだ女が百合を見据え、こう言った。
「
この寺は追儺寺ではなかったのか?
訳が分からず言葉を失う百合の肩に青年が片手を置き、向こうでは着物姿の一人の男性が人々の前でゆっくりと扉を開いた。そして、人々に向かって告げる。
「今日こそこれを解き放たん」
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