鬼面  後編


 開かれた堂の中は特に飾り気もなく、いたって簡素だった。
 中央に朱塗りの華奢な勾欄こうらんで囲まれた四角い檀があり、それを挟むように天井からは二つの吊灯籠、檀の四隅には燭台があった。それ以外には花瓶や香炉など、仏具らしい仏具もない。
 扉を開けた男性が中に入り、その燭台に太い蝋燭を立てて火をつける。黒塗りの燭台に立てられたその蝋燭が白ではなく、赤である事に百合は違和感を覚える。そしてこちらは電気なのか、誰も何もしないのに吊灯籠に明かりが灯った。
 檀の周囲は人が一人歩ける位の板張りの狭い床しかない。
 そして檀の上──
 暗い小さな堂の中、宮殿や厨子もなく黒檀の台座の上に置かれ灯明に照らし出されたその木像は、百合のような素人でも一目で仏像ではないと判るものだった。
 如来でも観音でも菩薩でもなく、かと言って明王でも天部でもない。
 着物を着た姿はこの寺縁の人物か聖人しょうにんの像だろうかと思われるが、どこにも何も書いておらず、百合には判らない。
 行儀良く座った座像でもなく、片膝を地につけ片膝を立てて、片手は地につけた方の膝に置いてもう一方の手を振り上げるようにした、何のポーズかもよく判らない姿は聖人としては不自然でもある。振り上げた片手の指は鉤のように曲げられ、元は何かを手にしていたという事も考えられるが判らない。そしてそれがどんな人物を模して彫られたものなのかも全く判りはしなかった。なぜなら──

 その像には、「顔がなかった」からだ。

 本来像の顔があるべき所には、何者かが一刀で削ぎ落としたかのように平らな木の肌が出ている。
「あの像に欠けている物が何だか判りますか」
 突然隣の青年に問われ、びくりと心臓がはねる。同時にバッグの中、白檀の箱の中で面がかたりと揺れる音がした。
「え、と。顔、ですよね」
 気分が悪い。訳もなく息苦しく、百合は大きく息を吸う。
 堂の前の人々は無言だ。
「そう。面と、そして魂魄こんぱくです。さあ、鬼面を渡して下さい」
「あれは──」
 あれは鬼の像なのか?
 鬼神ではない。それによく四天王像が踏みつけにしているような邪鬼のたぐいでもない。
 あれはただ、人に見えるもの。
「どうぞ」
 微笑みを浮かべ、青年は百合に手をさしのべる。
 胸が締めつけられるように気分が悪くなってくる。
 何か小さな音が続いていると思ったら、カタカタカタカタと箱の中身が小刻みに動いている音のようだった。
 あえぐ様に、百合はバッグを開く。しかし中に手を入れる事が出来なかった。
「私には……」
 今はもう、箱にすら触る事は出来ない。
「失礼しても?」
 青年が訊ね、百合はがくがくと頷いた。本当にそれを渡してもいいのか、判断することも出来ないほど気分が悪かった。
 すっと、青年はバッグの中から白檀の箱を取り出した。十字に掛けられた紐を解き、箱を開ける。
 中を確認すると満足そうに頷き、後ろを振り返った。
「茜」
 そう言って、緋色の着物の女性に箱ごとそれを手渡した。彼女の名は茜と言うらしい。
 無言のまま彼女は頭を下げて両手でそれを受け取り、堂の中の像に向かって静々と歩き出した。
「ようやくお前の罪も浄化される」
「長かったね、茜」
 歩いて行く彼女に道を開けながら、人々が彼女に声を掛けた。彼女はそれには応えず、鬼面の入った箱を捧げ持ちゆっくりと歩いて行く。
 彼女が鬼面と共に離れるにつれて百合の気分の悪さはおさまっていった。
「大丈夫ですか?」
 青ざめた彼女に、青年は気掛かりそうに声を掛ける。
「大丈夫……です」
 大きく息をつき、百合はなんとか答えた。
「あなたはあれをどこで手に入れたのですか?」
「田舎の蔵の中に……でも誰もそれが何なのか知らなかったし、記述もなくて」
 皆の視線の先で、茜は鬼面に面紐を付けると堂の中に入った。ぐるりと檀の周りを歩き、後ろにあるらしい階段を上って壇上に出る。
 腕を伸ばし、顔の無い像に面を付けた。
 人間と同じ程の大きさの像にその面は丁度合う大きさであり、白髪のついた面であるから木像としては奇怪ではあったが、顔の無い像は今、やっと「顔」を得たかのように見えた。
 それから茜は像の前に回ると、しんと静まり返る人々に向かってその場に膝をつき、指を揃えて深々と頭を下げた。
「皆様、お世話になりました」
 人々は無言のまま、しかし彼らも深くこうべを垂れた。
 百合の隣で青年はただそれを見守っている。
 扉近くに立っていた男が懐から何かを取り出し、茜に手渡すと再び扉近くに戻った。
 彼女が手にしたのはのみつちだ。
 そして鬼面の額の中央に鑿をあてがい、槌を振り上げるとそのまま打ち下ろした。
「……!」
 百合は茫然とそれを見ていた。
 目の前で、面にピシリと亀裂が入る。その亀裂はガラスに石を投げた時の様に面はおろか像の表面全体に走ってゆく。
 その時、すぐ側でパンと大きな音がした。
 青年が掌を打ち合わせたのだ。
 その音と共に木像は面もろとも粉々に砕け散った。
「あかねぇ……」
 深く暗い声が響く。奈落の底から響いてくるような声だ。
 ゆらりと人影が起き上がり、今まで像があった檀の上には茜の他にもう一人、白い着物を着た長い白髪の……鬼がいた。


 目の前で何が起こったのか、まるで理解出来なかった。
 ついさっきまで木像があったその場所に、今は白い鬼が立っていた。
 白い鬼、としか言いようが無い。乱れた長い白髪とその髪の間から伸びた骨色の角。そしてその目は血の様な赤だった。
 そしてその手と腕が赤く染まっている。あれは何だ? 赤い──
 その腕から、ずるりと滑り落ちたものがあった。
 鬼の腕が下ろされるのに従い、どさりと崩れ落ちる赤と黒の塊、それは……。
「ひ……」
 それ以上悲鳴も出ない。
 それは、鬼の腕に胸を貫かれた、茜の身体だった。
 壇上から茜の黒髪が乱れ落ちる。天を見上げたその目は瞬きもしない。
「よくもやってくれたなぁ、あかね」
 己の腕を伝い落ちる女の鮮血をぞろりと舐めあげると、仄暗い愉悦を込めて白い鬼が嗤う。
「白鬼が戻ったぞ」
 小堂の扉を開けた男が皆に告げた。
 そして、その男にも二本の角。
「お帰りなさい」
「お帰りなさいませ」
「良く戻られた」
 人々が沸き立つ。先程まで確かに普通の人間に見えていた彼らの頭にも、今やそれぞれ角があった。男も女も分け隔てなく。
 檀を囲った飾りの勾欄を身軽に飛び越え、白い鬼は檀の下に降りる。そして堂を出ると入口に立った男性──というよりも、鬼──に言った。
「あれに手を出すなよ。あれは俺の『餌』だ」
 そして、裸足のままこちらに向かってきた。
「今戻った」
 百合と青年の前で足を止め、にやりと笑った。
「お帰り、白鬼」
 柔らかに青年が声を掛ける。そちらを見た百合の視線の先にあったのは、つややかな黒髪の間から他の者と同じく生えた二本の角。
「まったく……」
 白い鬼は首を回し、ぽきぽきと鳴らして呟くと女を殺した事など忘れたかのように言った。
「随分長く眠ったぞ。こいつのせいか」
 血に染まった指先で百合を示し、百合は身を縮めた。
「彼女は無関係のようだ。どこをどう巡り巡ったのか、たまたま家に面があっただけで。手を出すのはやめておけ」
「ふん」
 血まみれの指が一本、百合の顎の下におかれて無造作に上向きにさせられる。
 真っ赤な血の色の瞳が彼女を見下ろしていた。思わずぎゅっと目を瞑る。
「……確かに奴の血筋ではないようだな」
 何をどう判断したのか彼は一人納得したらしく、だが百合から離れずにその耳元に言葉を吹き込んだ。
「俺の魂魄をここまで運んだ褒美として、お前の命は助けてやろう」
 先程は上から降ってきた同じ声が、その次の瞬間には息も触れそうな程に近い。目を閉じていても感じるその気配は百合の方に身をかがめており、今にも取って喰われそうな本能的な恐怖を感じさせる。そして聞き取ったのは誘うような響きと残酷さの入り混じった魔性の囁き。
 だがそこまでだった。
 鬼が離れた気配に、百合は恐る恐る目を開けた。
 黒髪に黒い着物の黒い鬼と、白髪に白い着物の白い鬼が並んで立っている。
「あまり脅すな」
 苦笑する優しげな彼でさえ、女が一人殺された事について気に留める様子はなかった。
 そして気付く。
 二人は髪と眼の色は違うが、その顔は兄弟の様に良く似ていた。
 だから、彼に初めて会った時にどこかで見たような気がしたのか。木彫りの面としてデフォルメされてはいたが、鬼面は確かに白い鬼の顔であったのだから。
「外の世界にお帰りなさい。白鬼が甦った今、もうあなたに用はない。鬼面がもう存在しない以上、あなたもここに用は無い筈」
 黒い鬼は百合の肩に手を掛け、外に向かって歩き始めた。
「仲間の筈の女の人は殺したのに……」
 白い鬼に貫かれた茜にも角はあった。彼女もまた鬼であった筈だ。
「あの女は裏切り者だ。鬼でありながら人である男に心奪われ俺を封じさせた」
 背後で白い鬼が笑った。その後を彼は引き取り、続ける。
「彼女は人間との間に三人の子供をもうけましたが夫となった男が戦で得た傷が元で死ぬとその肉を喰らい、一番上の子供を殺して、下の二人の子供を贄として連れ戻ってきた。子供には敵の血が流れているのでその場で喰い殺されました。彼女が今まで殺されずにいたのは、彼女を殺す権利は白鬼にしかないからです」
 たくさんの鬼達が、外に向かって歩く二人を見つめている。百合の持ってきた鬼面が白い鬼を甦らせるきっかけとなったためか、その視線に敵意は感じられなかった。
「今日の事は忘れろよ、娘」
 不吉な白い鬼が言い、哄笑した。
 肩を震わせる彼女を安心させるように、黒い鬼がそっと肩を叩く。
 門をくぐると、黒い鬼は百合に言った。
「ここは鬼迎寺。鬼の集う寺です。白鬼が甦った以上鬼面寺としての側面は薄れて行くでしょう。追儺寺でお友達が待っていますよ、我々には縁のない寺ですが……ね」
 微笑んで彼は軽く百合の背を押した。
 数歩進んで百合は振り返り、彼が門の内側に戻って見送っているのを見る。そして、黙って石段を下り始めた。


「百合!」
 石段を下りきると、美野里がそれを見つけて駆け寄ってきた。
「何してるのよ、そんなところで!」
 振り返るとそこには寺どころか石段もなく、道の端から少し窪んだ所に小さな不動尊が立っているだけだった。
「美野里……いつ戻ってきたの?」
「何言ってるの、どうして鬼面寺にいないのよ。ずっと待って、探してたんだから!」
 来る時に歩いていた筈の竹林の間の細道の出口すら、石段があった場所の向かい側から消えていた。
 美野里の話によれば、携帯電話に掛かって来ていたのはようやく受けてみれば間違い電話で、すぐに戻ったが百合に追いつけなかったのだそうだ。細道は最初の方こそ曲がりくねっていたがその先は真っ直ぐで、ここからもう少し離れたところに出口があったらしい。追儺寺は今いる場所とは反対方向だという事だった。
 無関係な美野里を排除する力が働いたのかと、百合は話を聞きながら思う。
 そう言えば御開帳なんてやってなかったよと不思議がる美野里に連れられて追儺寺に行くと、ガイドブックの写真と同じく幟旗が両側に立てられた石段と、そして追儺寺の文字があった。廃寺となっていた鬼迎寺よりはずっと大きい。
「お面、持って行くんでしょ」
 百合は首を振った。
「ううん、もう……いいの」
 鬼の顔は、持ち主の身体に戻った。そこに封じられていた魂魄と共に。
 鬼達はどこに行ったのだろう。あれは、この世の者ではなかったのだろうか。
 今はもう確かめる術も無い。
「あれ、顎に何かついてるよ」
 言われて指先で触ると顎の下に赤いものがついていた。慌ててハンカチで拭き取る。ハンカチを握り締め、それを付けた鬼の恐ろしいが整った顔を思い出した。
『今日の事は忘れろよ』
 不吉な白い鬼も、優しげな黒い鬼も、そして美しい緋色の鬼の女の事も、ただ一人百合の胸にしまわれた。
 鬼面寺はもう、そこにはない。
 二度と辿り着く事は出来なかった。

END      
(2006.7.24)

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 これはしばらく前に「洋風鬼(緑の鬼)以外に純和風の鬼もいいよね」と思いついた和風鬼設定がありまして、長い話をまともに書くには今はちと資料がないので、気分的にはサイドストーリーのようなイメージで書いたものです。
 ちなみに「白鬼」というのは名前じゃなくて肩書みたいなもの。「しろおに」じゃないですよ。
 私の中には「鬼は人間喰ってなんぼ」という固定観念がありますが、彼らの場合は緑の鬼と違っておそらく人間は言わばたまの贅沢品で、通常は人間と同じものを食べて暮らしているものと思われます。
 検索した限りでは出て来ませんでしたが鬼迎寺も追儺寺も架空の寺です、念のため……(追儺寺は俳句サイトがいくつか引っかかりましたが、その名前の寺があるのか不明)。

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