夜明けの前に  前編

 闇に絡め捕られる。
 じわじわと闇は彼女を囲み、動きを封じる。
 声もなく、正体も判らないただ無限に続く闇。
 悲鳴は闇に吸い込まれ、押し潰されるようにして消える。ねっとりと密度の濃い深い闇はじきに彼女の口をも覆い、その悲鳴さえも塞いでしまう。
 それでいて、彼女の視覚は封じられることはない。それはやはり夢だからか。目を閉じていても変わりのないような闇、しかし目を閉じられてはいないのだという証拠にそれがいつしか血の色を帯びてくる。
 真紅の血が滲み出るように闇の中に赤が広がっていく。
 それが彼女の身体に到達し、彼女を襲う時、彼女は再び声にならない悲鳴をあげる。そして意識は真紅の闇に落ちてゆく……。


 柚花はベッドの上、目を見開いた。
 窓からは朝日が差しているが、良く眠った充足感はなかった。
 やはり眠るのではなかった。
 最近、夜眠ると得体の知れない夢を見る。
 繰り返し繰り返し。
 学期末の試験中は、だから眠らないほうが却って好都合であったし、学校から帰って夕方仮眠するときには不思議と夢を見なかった。それで油断したのだ。
 試験が終わってつい早めにベッドに入ったは良かったが、悪夢は彼女を忘れてはいなかった。
 とびきりの悪夢。
 何かに追われる夢の方がまだましだった。
 どろどろとした血の色がまだ身体に纏いついている様な気がして気持ち悪い。
 良く眠れないせいか最近体調もいまひとつ良くない。
 大きな溜息をついて柚花はベッドを下りた。
 真岡柚花まおか ゆか十六歳、高校二年生の夏の事だった。


 試験休みに入って割と時間的に自由になったので図書館に通ったり、友人と遊びにいったりという、それはそれでせわしない日々が数日続いた。
 その間も夢は毎夜彼女を訪れる。
 夢を見るせいかちゃんと寝た筈なのにあまり眠った気がしないのだが、柚花はだから余計に眠らなければと早目に寝るようにしていた。気分は良くなくとも、己の身体のほうが大事だと思う。
 もっとも、それはあまり効果的とも言えなかったが。
 タールのようにどろりとした闇に包まれて眠る。
 夢は短い気がするのに、気がつけば朝になっている。
 どうにも仕方ない。
「部屋に何か憑いてるかな」
 冗談まじりに呟いてみる。
「やだ、やめてよ」
 そう言ったのは姉の柚芽ゆめだ。大学生である。
「冗談だってば。多分暑いから夢見が悪いんじゃない、それか夏バテかな」
 クーラーを付けて寝るのが嫌いなので夜は窓を開けて寝ているが、風のない夜は相当暑い。一軒家で二階にある彼女の部屋の窓の外はベランダも屋根もないので不用心とは思わない。隣の部屋を使う姉も似たようなものだ。
「気をつけなさいよ、休み中に身体壊したらつまんないでしょ」
「わかってる」
 これから夏休みが始まるというのに、それは自分としても避けたい事態だった。
「いつ出掛けるの」
 そう聞かれて柚花は時計を見た。午前十時だ。
 今日は友人の家に泊まりに行くことになっている。
「昼過ぎに出る」
「じゃお昼勝手に食べて出てね、私出掛けるから」
 両親が共働きなので、この休み中の平日の昼間ともなると家には姉と柚花だけになるのだが、大体どちらかが出掛けているので二人ともが家にいることは少ない。
 殊に姉は数年振りに日本に戻って来た外国人の恋人と会っているので最近はよく出掛けている。それでも大抵は律儀に帰ってきて夕食を食べているあたりが立派だった。食べ物の好みがあまり合っていないのだろうか。
 姉を送り出してから一人で軽く昼食を取り、食器を片付けてから家を出た。
 友人の家では環境が違うせいか夢をみることはなかった。数日居ついてしまいたいくらいだと一瞬本気で思ったが、それはさすがにやめておいた。


 そしてまた、柚花は夢を見ている。
 逃れることの出来ない夢。
 そして夢の中、襲いかかる闇からも逃れることは出来ない。闇の中、目視出来ない暗黒の糸でがんじがらめにされて身動きも出来ぬまま、視界は徐々に鮮紅色に染められていく。
 そして──これが現れるようになったのはいつからだろう?
 首筋に吹き掛けられる生暖かい息遣いに背筋が粟立つ。
(近寄らないで)
 叫びは塞がれたまま、頭の中でこだまする。
 周囲は相変わらず真紅のみ、他に何も見えはしないがそれでも「何か」がそこにいる。意志を持つ闇の他にか、それとも闇が形を取ったものかは知らないが。
(食べられる)
 喉首からばりばりと噛み裂かれる想像が脳裏をよぎる。
 そうだ、昨日は鋭い痛みが襲ってきたところで意識を手放した。そのまま夢を見続けていたらどうなったのだろう? 夢ならば骨の一かけらになるまで死なないかもしれない。発狂しそうな恐怖。
「何か」が牙を剥く気配に彼女は身を固くする。
 その、時──

 世界が静止した。
「なんだ、この家は……」
 夢の中での初めての音だった。
 何者かの声。まだ若い男の声だった。
 その声色には戸惑いが表れている。
 そして、夢は色褪せていく。
「……!」
 柚花は目を覚ました。ベッドの上で飛び起きる。
 夜中に目を覚ますのは最近では初めてのことだ。しかも夢の最中ときた。あの声が原因かもしれない。
 時計を見ると午前二時だった。
 助かった、と思う。夢とはいえ、化け物か何だか知らないが食われるのは相当気分が良くない。
 窓から入る微かな風を頬に受け、外に意識を移した時ふと気付いた。
(ライアさんが来てる)
 隣の姉の部屋に人の気配がある。
 電気が点いており人の話し声が小さく聞こえた。
 姉の恋人であるライアが部屋に来ているのだろう。他の部屋に両親が眠っているというのにいい度胸だ。
 数年会えずに連絡も取らずに過ごして、やっと再会した二人だけに邪魔をする気もないが、少しはわきまえろと言いたくもなる。そんなに好きなら今まで手紙一つ寄越さなかったのは何故だと言うのだ。姉の事は日本にいる間だけで、向こうにはまた別の恋人がいてもおかしくはない。姉は文句一つ言わなかったが、時折寂しそうだったのを柚花は知っていた。
「ごめんな、こんな時間に。ちょっと顔見たかっただけだから」
「うん。おやすみ」
「おやすみ。良い夢を」
 挨拶なら外でしろ、とも思うが状況的に無理だろうという察しはつく。玄関からここまで、よく物音一つ立てずに入ってきたものだ。それにしても今の柚花にこれほど無縁な言葉もあるまい。「良い夢」を? くだらない。
 少々八つ当たり的な憤りを持ちつつ、再び横になって目を閉じた彼女はすぐに今度は平穏な眠りにつき、ライアが部屋を出た気配も判らずじまいだった。


 翌日の夜、彼女の眠りを訪れた夢は今までとは劇的に変わったものになった。
 最初は同じだった。いつのまにか取り残された彼女は一人、どこか広い空間にいる。そこにひたひたと闇が押し寄せて来……どこに走って逃げても四方から来る暗黒は彼女を追い詰め、身動き出来ない程に取り囲み、闇に絡め捕られる。
 声もなく、正体も判らないただ無限に続く闇。
 悲鳴は闇に吸い込まれ、押し潰されるようにして消える。ねっとりと密度の濃い深い闇はじきに彼女の口をも覆い、その悲鳴さえも塞いでしまう。
 その──闇の中に光が射した。
 ざっ、と闇が退く。
 光は広がり、辺りに満ちた。
 一体何が起こったのだろう。柚花はその場に崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。それでも視界の隅、光の中に人影があるのだけは確認していた。
 ゆっくりと、誰かが歩いてくる。
 顔を上げる気力もなく俯く彼女の所まで、それは近づいてきた。視界にある冷たい磨き抜かれた黒い石の床に裸足の指先が入ってくる。
「助けにきたよ、お姫さま」
 その声は、昨夜の声と同じだった。
 力を振り絞って顔を上げると、若い……さして彼女と年も違わぬような少年の顔があった。
 白い肌に黒髪の、彼女の知らぬ顔。それでもその顔はひどく優しかった。今までずっと一人きりだった彼女の緊張の糸はぷつりと切れ、手を差しのべて起き上がらせてくれようとした彼の胸にそのまま倒れ掛かってしまった。意識は薄れて安らかな眠りが彼女を誘い、それに身を委ねた彼女は朝までぐっすりと眠っていた。


 終業式を迎え、柚花が帰宅すると二階の廊下に姉とライアが立っていた。
「何かいる? この部屋」
 姉が聞いている。
「いや、何もいないな、少なくとも今は。何か憑くとしたら部屋じゃなくて多分本人だろう」
「でも友達の家に泊まった時は何も見なかったって」
 どうも柚花の部屋をライアに見せているらしい。勝手に人の部屋に来ないでよ、と思いながら階段を上がりきると、ドアを閉めたままの柚花の部屋の前に二人はいた。
「ただいま。中入った?」
「中は見てないから安心していいよ。おかえり柚花ちゃん、今日も暑いね」
 愛想良く彼は笑いかけた。
「ライアさんってそっちの人だったの?」
 とても、宗教や超常現象に傾倒しているようなタイプの人間には見えないが。
 姉の恋人は銀色の髪に青い目をした非常に目立つ姿をして、その外見にもかかわらず流暢な日本語を操り、どちらかと言えばおとなしめの姉をどんな女よりも好きだ、と笑顔で言い切るような男だった。
 数年前は姉の同級生だったが、今は何か仕事をしているらしい。短期留学などではないようだし、旅行なら今回もおそらくそう長く日本にいるわけではないのだろう。
 彼は肩をすくめ、笑った。
「ちょっと勘がいいだけだよ」
「で、私には何か憑いてるの?」
 冗談めかして聞いてみる。
 どうやら夢の風向きも変わってきたような気がするし、その可能性は低い気がするが。
「夢ってのは、どんなの? 男に襲われるとか?」
 彼は柚花の顎に手を伸ばして上向けさせると、観察するような目を彼女に注いだ。居心地が悪い。
 それでも、その瞳は澄んだブルーで綺麗だった。その瞳で彼は姉に愛を囁く。会いたかったよ。愛している。
 聞いているこちらが赤面してしまう言葉、日本人の同じ年の男なら滅多と口に出せないような台詞。
「ライア、人を欲求不満みたいに……」
 呆れたような嫌そうな声音で姉が言う。
「いや、いるんだって。そういう魔物が」
「残念でした。襲ってくるのは暗闇です。でも多分もう見ない気がする」
 柚花は明るく言った。一度助けられる夢を見たから、多分もうあの夢は見ない。助かることが判っているならば、あの程度なら恐ろしくはないのだから。
「そっか、ならいいけど」
 手を離して彼は微笑んだ。その手で軽く頭を撫でる。
 まるで小さな子供に接するようだ。まあ恋人の妹など、彼の目から見れば子供には違いないだろう。
「お前が心配するほどダメージ受けてないみたいだぜ」
 彼は姉の柚芽を振り返った。
「うん、ごめんね変なことで煩わせて」
「俺に出来ることなら何でもするさ」
 恐縮する柚芽に平然と言ってのけると笑顔を見せた。
「そろそろ出掛ける?」
「来たばかりじゃない」
 紅茶でも入れて一息ついてから、と言う柚芽にライアは首を振った。
「今日はやめておこう。長居してここの娘は親の留守に外人連れ込んで遊んでるって近所で噂されたくないし」
「別に構わないじゃない。変な事してる訳でもないし、ライアがここにいるのは本当だもん」
 意外と考えている男と意外と気にしていない女の姿がそこにあった。
「お前が構わなくても、俺は嫌だよ。お前の為だ」
 彼は自分がどれだけ目立つか自覚しているのだろう。
 それがまだ学生である日本人の娘と一緒にいると他人の目にはどう映るか、冷静に判断している。
 その気遣いは少し羨ましくなるくらいだった。
「判った。じゃ、いこ」
 ちょっと不服そうに柚芽が部屋にバッグを取りにいく。
「出掛けてくるね。夕飯いらないから」
 珍しく夕食を一緒にとるらしい。
「いってらっしゃい」
 またね、とライアが愛想よく手を振る。
 二人を送りだして柚花は自室に入ると息をついた。万が一彼が兄になった場合、随分あてられそうだと苦笑する。もちろんそれは、仕方がないことなのだろうけれど。


 そして、訪れる夢はまったく違う夢になっていた。
 柚花は自分の部屋にいる。
 そして、部屋にはもう一人。
「どうして会いにくるの?」
「来ちゃいけないの?」
 くすくすと彼は笑う。あの転機が訪れた夜以来、柚花を助け出した少年は毎夜彼女を訪れる。いや、訪れるという言い方は間違っている。彼は夢の最初からそこにいるのだ。
「お前の顔が見たいから」
 まるでどこかの誰かのような台詞をさらりと言ってのける。そしてそう言われて悪い気のするわけがないのだ、嫌いな相手でもない限りは。
 夢の中の彼女は、彼が心底自分を好きだと知っている。
「いいだろ、会いに来ても」
「……。いい、けど……」
 嫌だとは言えない。来てほしいのだから。
 そしてこれは夢だから、突然両親や姉が部屋に入ってきて、騒ぎになることもない。ならば、彼と二人で部屋にいようと何の問題もないではないか?
「素直に言えばいいのに」
 笑って彼は柚花の肩を抱き寄せ、首筋に唇を這わせる。
「それが、違うんだってば」
 柚花は赤くなって彼を押しのけた。どう考えても順番が違うだろう。
「ちぇ」
 不服そうに、それでもとにかく彼は身を退いた。代わりに彼女の勉強机の前に行き、その上に広げられているノートをのぞき込む。
「これ、何?」
 とにかく、彼女のことなら何でも知りたがる男だ。
「夏休みの宿題」
「へえ、もうやってんの」
「先に嫌なものは済ませる方がいいでしょ」
 その方が心置きなく後で遊べる。
「偉いな、頑張れ」
 そう言って優しく彼は柚花の頭を撫でてくれた。
 子供じゃないんだからと思いつつ、ほっとするひとときだった。


 目が覚めて、なんとなく落ち込んだ。
 どうやら先日のライアとのやりとりが尾を引いているようなのが自覚できたからだ。
 柚花は別にライアを好きな訳ではない。外見で言えばライアよりも夢の中の少年の方が彼女の好みに合っている。ただ、彼のような自分だけ見てくれる男を恋人にしている姉が羨ましいだけだ。何とも情けない。


「お前の姉ちゃん、すげえグレートな」
 逃げる素振りをする柚花を後ろから抱きしめて、くすくすと笑いながら彼が言う。
「何が?」
「銀の……と、承知の上で付き合ってるなんて、まともな人間に出来るわけないだろ」
 銀の……何?
「でもそんなこと、好きになっちゃったなら関係ないんじゃないの? だって仕方ないじゃない」
 その瞬間は全て理解していたと思う。けれど目が覚めた時、彼女には彼が何と言ったのかもう判らなくなっていた。
 しかし一つ覚えていることがある。彼女の言葉に対して彼が呟いた言葉。
「自分がその立場になっても同じ台詞が言えるなら、お前は最高の女だよ」
 言葉の含む意味も判らないまま、それでも彼の言葉は柚花の胸に刻み込まれた。


 八月に入ったある朝、まだ母親が家にいる時間に珍しく起きて朝食をとっていた柚花を見た母が眉をひそめて言った。
「柚花、あんた痩せたんじゃない? 家にいてちゃんと朝昼食べてるの?」
「一応食べてるけど……。え、痩せた? ラッキー」
「ラッキーじゃないでしょ、急に痩せたんじゃないの? 休みでも暑くても規則正しい生活するの。わかった?」
 笑ってごまかそうとしたのに厳しく言われて、不承不承柚花は頷いた。
「はーい、気をつけます」
 確かに最近体力が落ちている気がする。痩せた自覚はなかったのでそれは母親の気のせいだと思うのだが、特別何かした訳でもないのに疲れが抜けなかったり、暑くて出掛けたくないからと思ってごろごろしているといつの間にか寝てしまっていたりする。
 そしてそういう時には夢は見ないのだが、相変わらず毎夜夢を見る。悪夢ではないので不快ではないが、普段は翌朝覚えている夢を見ることは少ない柚花にしてはこれは確かにおかしなことだった。
「別に害はないからいいんだけどね」
 一人呟く。夢を見る原因は判らないものの、最近では名も知らぬ夢の中だけで会う彼が今日はどんな話をするのかと楽しみでもあったりする。やたらと人の身体に触れたがるのは困りものだったが。


 夢の中、いつもの通りの自分の部屋で、しかし柚花は一人だった。彼の姿がないのは初めてかもしれない。
 今日は来ないんだ。
 ふうん、と思う。なんとなく、もう今後ずっと彼が出てくるような気がしていただけに少し意外だ。
 ならば今日はゆっくり眠れる。
 夢の中にもかかわらず柚花はそう思い、ベッドに入った。誰にも邪魔されないで眠れるのは一月ぶりではないだろうか?
 その時だった。
 部屋の窓がからりと小さな音と立てて開いた。とん、と軽快に人の足が窓枠を蹴ってしなやかな動作で人影が部屋に入ってくる。彼、だ。
「ちょっと遅れたか」
 呟いて微笑む。
 今までも窓から侵入して来ていたのか、彼は? それでも夢の中ゆえに柚花はさして不思議にも思わずそれを受け入れてしまった。ただ、窓の外には何もないのだ。それが気になると言えば気になる。壁を登るのは非現実的だ。屋根から……いや、どうやって屋根に上がるというのか。柚花は布団を抜け出し、窓に近寄る。
「どうした?」
 窓の外にはこれといって梯子や何かの道具も見当たらない。窓から入り込む非常識さには目をつぶるとしても、その手段が判らなかった。
「遅くなったの怒ってる訳? ゆーかちゃん」
 機嫌をとろうと猫なで声ですり寄る彼が判らなくなった。他にどんな手段がある? 鳥ではあるまいし、飛んでくる訳にはいかないだろう。そう思った瞬間柚花は動きを止めた。
「え……?」
 飛んで。
「違う、待って」
 柚花は頭を抱えた。
 ライアは? どうしていたのだ。
 行儀良く玄関から入ってきたのか? 近所の目を気にするような男がそんな危険を侵すだろうか。
 空を飛んで窓から入る。
「馬鹿馬鹿しいわ」
 己の考えを打ち消しながら、それでもその思いはまったく消えなかった。
「おい……?」
 彼の声が遠くなる。
 景色が色褪せていく。
 一瞬目眩のように視界が暗くなり、目を開く。
 その視界一杯に、彼の顔があった。
「え……?」
 驚きに目を見開いた顔。
 柚花は瞬きした。まだ、自分のベッドの中にいる。
「どうして……」
 うろたえたような少年と目が合った。

 現実──!

 夢と寸分違わぬ少年の、その口元に夢では確認出来なかった白い牙が見えた。
 柚花にはその時全て判ったような気がしたのだ。
 それとも判ったような気がしただけだったかもしれない。どちらでも良かった。
 何も考える事なく彼女は腕をのばし、狼狽して逃げることも彼女の口を封じることも、どちらも出来ずに彼女に覆い被さろうとした体勢のまま固まった彼の首に巻き付け、引き寄せた。
 何が起こるのか判っていたとは正直、言いがたい。
 首筋にぷつりとした鋭い痛み。
 彼女の血が彼の中に流れ込んでゆく。その代わりに奔流のように様々な思考の波が彼女の中に流れ込んできた。
 夢の断片。眠っている柚花自身の映像。そして柚花の部屋の窓から彼が見たらしいライアの姿。黒い翼を背に持つ男。これは彼の記憶、彼の心。
 そして──。
(よせ、俺にさせるな!)
 悲鳴のような彼の叫びが頭の中で響いた。
 視界に見えるのは部屋の天井と柔らかそうな彼の黒髪。
(止められない……!)
 急激に流れ出る血液に意識は遠のきながら、柚花はその少年の頭を抱いて長い吐息を漏らした。


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