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  夜明けの前に  中編

 ああ、そうか。
 そうだったんだ。
 毎夜柚花を訪れていたのは、夢だけではなかった。
 彼だったのだ──


 目覚めた時、柚花は自分がどういう状態なのか良く判らなかった。
 ぼんやりと辺りを見回す。
 既に明るくなった自分の部屋だった。
 そして、自分の他には誰もいない。
 ひどく身体がだるく身体を動かすのも億劫だったが、どうやらまだ生きていた。このまま死ぬのだと昨夜は確かに思ったが。
 それとも、もう自分は人間ではないのだろうか。
 昨夜、夢の中に出てくる少年と全く同じ顔をした彼は夢ではなく彼女の部屋にいた。彼の口元に白く鋭い牙を見つけ、それを己の喉に導いたのは柚花自身だ。
 吸血鬼。
 実際はどうであれ、おそらくそう呼ばれるものだったのだ、彼は。
 では、彼に血を吸われた柚花は同じく吸血鬼になるのだろうか? 既に人ではないのか。
 だが少なくとも朝日に当たって死ぬということはなかったようだ。もう昼近い。
 ベッドを下りて鏡を手に取る。青白い顔をした自分の姿が映った。だが首筋にあるだろうと思った牙の痕は残っていなかった。
 あれも夢……いや、そんなことは断じてない。貧血でぐらぐらする頭で柚花は思う。
 憑いていたのは部屋にではなく柚花自身にだった。ライアの推測もあながち間違いでもなかったのだ。霊の類に取り憑かれる、というのとは大分違っていたが。
 柚花は一日部屋で横になって過ごした。気分が悪く、食事もろくに喉を通らなかったのだ。
 仕事から帰ってきた母親に顔色が悪いと言われたがごまかし、部屋に閉じこもった。母親がいない時は代わりに何かと煩い姉は何か考え事でもしていたのか、柚花と同じく殆ど部屋から出てこなかったのが今の彼女には有難かった。


 日が落ちる。
 夕闇が迫ってくる空を柚花は見つめていた。
(おいで……)
 頭の中に声が響く。
 ああ、彼が呼んでいる。
 柚花は適当な理由を付けてふらふらと家を出た。彼が待っている。早く行かなければ。
 どの道をどう来たのかわからないまま、彼女は家から少し行った所にある公園の前にいた。知った場所ではあるが普段来ることはない。彼女の生活範囲からは外れた場所にあった。何故そんな所に来てしまったのだろう。そんな事は勿論判りきっている。
 そして公園の入口、車止めに腰掛けた彼がいた。
 夕闇の中に溶け込むかのような、不吉な黒い色を纏ったその姿。
 柔らかそうな生地の黒いシャツにすらりとした脚を包んだ細身の黒のパンツ、それに留められたシルバーのウォレットチェーンには、これ見よがしに十字架が下がっている。人間の作り上げた吸血鬼のイメージを嘲笑うかのように髑髏の意匠が口を開けていた。そして肩に触れそうな長めの黒髪を持ち、白い肌はなめらかだった。
 その彼が、柚花を見ている。
 白人であるという事以外、どこの国のものとも彼女には見分ける事も出来ない夢の中と同じ顔だったが、夢の中で見せた明るい表情はそこにはなかった。
「私を呼んだでしょう?」
 ゆっくりと近づいて、そう言った。
「俺の声が聞こえて、ここまで来たのなら、俺が何者なのか見当はついているんだろう?」
 やはり、夢の中と同じ声だった。
 長い指先を柚花の頬に触れ、心持ち上向かせると、低い声で呟く。
「青白いな……」
 その声には苦いものが含まれているように思えた。
「悪かった」
 柚花を見つめるその瞳は薄い色だった。いかにも日の光に弱そうな、暗くて良く判らないがごく薄い灰色、それともグリーンだろうか。
「なぜ、あんな事をしたんだ?」
 なぜ、わざと彼に自分の血を吸わせたのか。
 はっきりとは彼女にも判らなかった。あの時は頭よりも先に手が動いた。理由も理屈もそこにはない。
 真っ直ぐに彼の瞳を見つめ返して、柚花は言った。
「ただそうしたかっただけ。多分」
 表情を変えずにそう言った彼女に、彼ははっとした様だった。
「過ぎた事はもういいでしょう? 次の話をしたいの。あなたは誰なの?」
「過ぎた事か……」
 呟いて彼は微笑む。それは夢の中で柚花が見た事のない、自嘲だった。
「俺の名前はカミュ。随分落ち着いてるんだな。もっと取り乱してるかと思った」
 状況も判らないのに、騒ぎようがないではないか。
 公園にはいくつかの遊具とベンチがあったが、この時間ではもう子供もおらず、野良猫が顔を覗かせた後植え込みの陰に消えて行った以外は人気もなかった。
 柚花が貧血で気分が悪そうなのを見て取ると、カミュと名乗った彼はベンチの方へと彼女を誘った。彼女の肘に手を添え、支えて歩きながら話し出した彼の声は夢の中と同じように彼女の耳に響く。それは言葉の途切れた後も胸の奥に残る深い音色。
「そろそろ、お前の所に通うのはやめなきゃいけないと思っていた。隣に来る奴とこの前鉢合わせしちまったし、お前からあまり血を抜き過ぎるのもまずいしな。昨夜は来るべきじゃなかった、本当に」
 隣に来る奴。柚花は呟いた。それはやはりライアの事だろうか。
「隣って……隣の家じゃ、ないわよね」
「隣の部屋だよ、当然」
 やっぱりそうだ。
「ライアさんも同じなの? ……あなたと」
 それを聞いて彼は柚花を見下ろし、微笑んだ。
「少し違う。俺よりはずっと無害……かな。ある意味」
 ベンチに彼女を座らせて傍らに立った。
「それに、お前の姉ちゃんとは別れたそうだし」
 それは知らなかった。
 目を見開いた彼女に「知らなかった?」と言い、昨日だと告げる。では、また彼は姉を置いて去っていくのだ。かつてと同じように。そして、姉は彼を待ち続けるのだろう。
 別れてライアが無害というならば、目の前にいるものは有害なのか。
 無害な訳ない、か。
 現在の己の状況を省みて、柚花は苦笑する。
「あなたは、私が思っている通りのものなの?」
 吸血鬼という言葉を口にすると非現実的でいかにも馬鹿馬鹿しく聞こえそうだったので、遠回しに聞いてみる。馬鹿馬鹿しいが、貧血でぐらぐらするこの体調は本物だ。
「多分な。お前が考えてるのが俺の想像と同じなら、そうだと答えるしかないかな」
 話し方も声も全く同じではあったけれども、少し引き気味なその態度は夢の中の彼とは微妙に違う。
「あの夢は……?」
 小さく笑って、無言のまま彼は柚花の前を横切ると隣に腰を下ろした。柔らかに笑うその顔は、夢の中の彼よりも落ち着いた態度で大人に見える。
「あれは、俺が血を吸う間気持ち良く眠っていてもらう為の夢。最初は目が覚めないように眠っていてもらっただけだけど、それで悪夢を見ただろう。あれは俺のせいじゃないぜ」
 あんなものまでわざと見せられていたのだったら、今すぐここを立ち去りたい位だったが、最初の頃のどろどろとした闇に襲われる夢は彼のせいではないらしい。
「夢見が悪そうだとは判ってたけど、その中まで入るのはちょっとと思ったから放っておいた。一時期だから構わないと思ったし。そしたら隣にあいつが来てびっくりしてさ。そんなこと起こる筈がないんだ、同じ家に住む二人の普通の人間の女にそれぞれ寄りつく奴がいるなんて」
 柚花は思い出した。
 悪夢が終ったきっかけは、この彼の声だった。
 なんだ、この家は。
「だから……まあ、その後の夢には多少俺が手を加えたな。夢の中でお前が見ていた俺も、あれは俺自身だと思ってくれても別に構わない。隠し事はしてたけど」
 嘘つき。
 暗い気分で彼女は思った。
 欲しかったのは私の血で、この人は私を好きだった訳じゃない。
 吸血鬼なら当然で、そんな事は今更どうでもいい筈。けれど、落胆しているのは何故だろう。
 理由は自分で判らないが、どうやら彼女は少し傷ついていた。
「カミュっていうの?」
 柚花の問いに彼は無言で頷いた。
「私は、これからどうなるの?」
「……その話は後で」
 彼は答えを言うのを避けた。
 一番彼女が気になる事は、彼にとっては避けたい話題らしい。
「もう人間じゃないの?」
 重ねて言う彼女の言葉に、彼は苦い顔をした。
「まだ人だよ。だから、心配しなくていい」
 そう言って彼は視線を誰もいない公園に向けた。住宅地の奥にあるここは、公園に面した道路も広いものではなくこんな時間には車も通らない。がらんとした空間に、柚花は彼と二人きりだった。
 そして彼女の心にゆっくりと染み込んできたのは含みのある言葉。彼は「まだ」と言ったのだ。
 まだ人間だ。今は「まだ」。
 柚花は重い溜息をついた。
 それと同時に目眩に襲われ、やはり自分がかなり弱っている事に気付く。このままここにずっといたら、一人で家に帰る事も出来なくなりそうな気がする。
「ごめん……帰る」
 彼女は力なく彼を見上げた。
「今は、まっすぐ座ってるだけでもつらいの」
 これは自分が招いた事だ。彼のせいではない。けれど今はどうしようもなく気分が悪く、休みたかった。
 ふらりと立ち上がろうとした彼女の身体がぐらりと傾ぐ。
「じっとしてろ」
 咄嗟に抱き留めた腕の持ち主を、柚花は知っていた。
 夢の中と同じ腕だ。もちろん他にいる筈もないけれど。その感触と力強さは全く同じで、夢の中の男を自分だと思っていいと言う彼の言葉をある程度裏付けるものだった。
「離して……」
 その腕から逃れるだけの力も出ない彼女の上体を、彼は座った膝の上に抱え込む。
「動けやしないんだろう」
 上から囁くように言う声は静かだが、それは自責のような苦いものが混じった響きであり、決して甘やかなものではない。
 他に誰もいない暗い公園のベンチにいる二人を外から見掛けた者がいたならば、じゃれ合っているようにしか見えなかったかもしれない。
 だがそれを客観的に判断するだけの気力は今の柚花にはなく、カミュは大して気にも留めていないようだった。
 次第に視界がぼやけてきたため力なく目を閉じた柚花の唇に、やがて彼の濡れた指先がぬるりと触れた。
 彼女の唇を湿らせて二本の指先がぬめり、柚花の唇を上下に割ってくる。
「口を開けるんだよ、柚花」
 子供をあやすように優しく、なだめるように声が囁く。二本の指は彼女の歯に動きを阻まれたまま、虚しく唇を濡らした。
 夢ではなく生身の彼が自分の名を呼ぶのは初めてだとぼんやり思いつつ、彼は何をしようとしているのだろうと柚花は薄く目を開け、その手に目を凝らそうとした。
「いいから、口を開けて飲め」
「何……」
 目を細め、呟いた彼女の瞳が焦点を結んだ先にあったのは、彼の手首の裂けたような乱れた傷口から溢れ出る真紅の血と、それが掌を伝って彼の人差し指と中指へと続く悪夢のような血の流れだった。
「嫌……!」
 彼の手を押し退けようとした柚花の片手が血で滑った。
「馬鹿、やめろ」
 元々柚花を抱える体勢になっていた彼は難なくその動きを封じ込め、そうして、顔をそむけようとする彼女の顔を上向かせると優しく言い聞かせた。
「血を抜き過ぎてお前は弱ってる。血が必要なんだよ、柚花。おとなしく飲め」
 血を吸われるばかりか、吸血鬼の血を飲んだりなどしたらどうなるか、判ったものではない。第一、血が足りないからといって輸血ではなく経口摂取でどれほどの効果があるのか、彼女には判らない。
 ぽたぽたと、彼の指先から地面に血が落ちる。柚花には地面を見る事が出来ないが、そこには暗い色の小さな血溜まりが作られてゆく。
 首を振る彼女に彼は力強い声で続けた。
「頼むから飲んでくれ。決してお前を吸血鬼にはさせない。このままだとお前の命が危ないんだ。それでも拒否するなら無理にでも飲ませる」
 今でも充分無理強いされていると、言いたくもなるがそうする元気もない。
 彼女の顔の真上にある彼の瞳は、薄い緑色がかった銀色だった。夕闇の中で時折きらりと鋭い光を放っている。
 沈黙した彼女を見下ろし、彼は柚花が血まみれになるのを避ける為に地面の方に伸ばしていた腕を再び上げると、掌の血をぺろりと舐め取り、今度は指先ではなく手首の傷口を彼女の口元に近付けた。
「飲んで」
 血に濡れていない方の手で優しく彼女の髪を撫で、そっと頬に触れた。
「大丈夫だ、俺を信じろ」
 どうせ、自分の運命は昨夜既に決まってしまったのだと、柚花は彼の瞳を見上げながら思った。
 今更抗うのは無駄というものだ。
 唾を飲み込み、おずおずと開けた口に、彼の血が流れ込む。
 小さな怪我などで少量の血を舐めた事はあっても、まとまった量の血など飲んだ事はない。舌の上に残る様なこれを、鉄の味とは良く言ったものだ。
 慣れない味に眉を顰める柚花に、カミュが小さく笑う。
「我慢しろ。美味いと感じないのは人である証拠だろ?」
 今はまだ、と心の中で彼女は呟く。想像したよりもさらりとした舌触りの液体は、思い切って飲み込むと身体の隅々まで染みわたる様な錯覚を彼女にもたらした。
 そして何で切ったのか二三センチの長さの深い傷口からは、絶えることなく彼女の口腔に真紅の流れを送り込み続けた。
「そう、いい子だ」
 髪を撫でる彼の手が、不思議なほど心地良かった。
 そのまま時が流れていこうかという、その時。
「何をしてる?」
 上から──カミュからすれば背後からとなるが、突然声が掛けられた。
 びくりと、彼の腕が一瞬震えて柚花の唇に傷口が触れた。
 柚花が目を上げると、カミュの首に誰かの片手が掛けられているのが見えた。軽く力の込められたその手が動いて一瞬離れると、彼の肩の上にぽんと置かれる。
「どういう了見だ?」
 聞き覚えのある声。けれど、こんな威嚇するような口調は知らない。
 後ろから屈み込んでカミュの顔を覗き込んだのは、姉の別れた恋人、ライアだった。


「事と次第によっては殺すぜ?」
 カミュの肩に手を置いたまま、ゆっくりとライアは後ろから回り込んできた。
「参ったな、気付かなかった」
 カミュが苦笑する。
「首を締めても俺は死なないぜ」
「知ってる」
 投げ遣りにライアは言って、手を離した。それから柚花の青白い顔を見下ろし、形の良い眉をひそめる。
「大丈夫か? 俺がわかる?」
 こちらは、まったくいつもと同じあたりの良い口調だった。黙って頷く柚花に小さく微笑んで、再びカミュに目を向ける。
「俺は手を引けと言ったよな?」
 珍しい銀色の髪と澄みきった青い瞳の青年は、自分よりもいくつか年下に見えるカミュに鋭く言った。
 柚花と、もちろん姉の柚芽も知らない所でそんなやりとりがあったとは。
「……」
 数瞬の沈黙の後、カミュは口を開いた。その間も彼の血は柚花の中に流れ込んで行く。
「手違いで血を抜き過ぎたから戻しているだけだ。頼むから今は黙って去ってくれ、後でそっちに行くから。あんたの心配しているような事にはならない。あんたにも、あんたの大事な女にも迷惑は掛けないし、彼女を引き込むつもりもない。大丈夫だ」
 それを聞いたライアは、話にならないといった様子だった。
「そんな事が通用するか? 第一この子はもうお前の正体も知ってる」
「彼女の姉だってあんたの正体を知ってるさ。でも何も問題は起こってない」
 開き直ったようなカミュの言葉に、ライアは黙った。
 ライアの正体を柚花は知らない。姉はいつから何を知っていたのだろう。柚花はそっと目を伏せた。
「このままじゃ柚花が危ないんだ。必ず後であんたの所に行くから、だから今は退いてくれ」
 放っておくと確かに彼女の生命に関わるのを見て取ったのか、ライアは溜息をついた。
「お前を殺してこの子を病院に運んだ方が早いけど、説明するのも面倒だな」
 ライアは彼の腕を取ると、赤い血の流れる手首の傷口にぎりりと親指の爪を食い込ませた。
「逃げるなよ」
 痛みに一瞬顔を顰めたが、カミュは頷いた。
 親指の指先についた血を舐めると、ライアは「じゃあ」と言って公園の外へと歩き去った。その言葉はカミュにではなく柚花に掛けられたもののようだ。
 先程は公園の入口の方からではなく突然背後に現れたが、どこから来たのだろう。考えるだけ無駄かもしれない、と柚花は思った。
 ライアがこれまで自分や姉に見せていたのは、彼の一面に過ぎないのかもしれない。少なくとも、あんな彼を柚花は知らない。姉は知っていただろうか。
 傷口に爪先をねじ込まれれば相当の痛みを伴うだろう。
「だい、じょうぶ……?」
 柚花はそっとカミュに訊ねたが、彼は苦笑するだけだった。
 地面にぽたぽたと彼の血がこぼれてゆく。
 その傷口の血を自分で舐め取ると、もう一方の手で開いた傷口を合わせる様に押さえた。じわじわと傷口が閉じ、消えていくのを柚花は息を呑んで見つめていた。そしてふと気付く。こんな事が出来るのなら、牙の痕など首筋に残っている訳がなかった。
「大丈夫だ。ちょっとはましになったか?」
 そう言われて柚花は目を瞬かせた。
「少しはいいだろ?」
 両手をベンチについてゆっくりと身体を起こす。カミュの手は血だらけだったので、彼はそれに手を貸そうとはしなかった。
 まだ、身体のだるさも頭のふらつく感じも残っていたが、それでもどうしようもない気分の悪さはなくなっていた。
「……そうみたい」
 呟いた彼女に安堵した様な微笑みを見せると、彼は立ち上がった。
 水道の所まで歩いていくと両手を、殊に血だらけになった左手を念入りに洗い流して戻ってくる。その一挙手一投足をくいいるように見つめている自分にふと気付き、柚花は首を傾げた。
「何? もうしばらく膝貸す?」
 その視線に気付いたのか目の前で立ち止まった彼にからかう様に聞かれ、慌てて首を振ると視界がぐるりと回った。
「馬鹿、気をつけろ」
 少し焦った様に支えられ、辛うじて体勢を立て直す。
 支えた腕が離れていかないのを不審に思い、顔を上げると銀緑色の瞳がじっと見ていた。
「ありがとう……何……?」
 無言で、彼は手を伸ばすと彼女の口元を親指で拭った。血がついていたらしい。その指先を舐める様子は先程のライアと同じだった。それから、彼は無言のまま身を屈め、端正なその顔を近づける。
「えーと、」
 何か言わなければ、と口を開こうとした彼女の肩を引き寄せて唇を重ねた。
 頭の中が真っ白になる。いや、むしろ真っ赤だった。
「な、なに、それ」
 しばらく後に解放されて口をぱくぱくさせる柚花の前で彼は少し考え、それから涼やかに答えた。
「……治療費かな?」
 そんな治療費があるか、と叫びたくなる。しかも今のは『キスされた』というよりは、『口の中に残った血液を隅々まで舐め取っていった』という方が正しいような気がする。吸血鬼である彼からすれば当然なのかもしれないが、それはそれでなんだか腹立たしい。
「怒るなよ」
 甘える様な響きは夢の中の彼と良く似ていて、実際とは違ったとしてもやはり彼は彼なのかと、もやもやと混乱する頭で柚花は思った。


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