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  夜明けの前に  後編

 彼の言葉など、最初から信じてはいなかった。
 だから、こんな事になるなんて、思ってもみなかったのだ──


 気がつくと家の前にいた。
 柚花の身体をを支える様にして、隣にカミュが立っている。
 家に着くまでの過程が記憶の中で曖昧だ。歩いてきた覚えがない。
「後でまた来るから」
 離れ際、耳元でカミュが囁く。
 驚いて見上げると、彼は口の端を上げた。鋭い牙がちらりとのぞく。
「まだお前血が足りてないからな。もしも腹が減っても人の血は絶対に飲むな。口に出来るなら人間の食べ物を食べた方がいい」
 そんな事を言われなくても、人の血を吸ったりするつもりは毛頭無かった。彼の血は、必要だと思ったから無理矢理飲んだのだ。好き好んで血液を飲む人間がいるだろうか?
 けれど、もう自分は人間ではないのかもしれない。自分の身体であるのに確信が持てない。
「いいな。絶対飲むなよ」
 念を押して彼は去って行った。


 湯船でまともに湯につかると動けなくなりそうな気がしたので、ぬるめのシャワーを簡単に浴び、髪を洗うと柚花は部屋に戻った。
 姉と顔を合わせる事はなかったので少しほっとする。ライアが姉に別れを告げた事を知った今、何と声を掛ければいいのか判らないからだ。
 頭からタオルを被って髪の水分を取りながら、ばたりとベッドに倒れ伏す。動くのが面倒臭い。
 だがそのままそうしていると寝てしまいそうだった。
 のろのろと起き出すと部屋を出て、ざっとドライヤーで髪を乾かした。
 それから、冷蔵庫から出したオレンジジュースをグラスに注ぎ、一口飲んで顔を顰める。
 妙に苦く、おかしな味だ。
「なんかこれ、味変わってない? 大丈夫?」
 受け取って一口飲んでみた母は首を傾げる。
「普通のオレンジじゃないの。歯磨いた後に物食べるんじゃないのよ。それと顔色悪いから早く寝なさい。具合悪いなら明日病院行ってね」
 そういう味じゃないんだけど、と思いながら適当な返事を柚花は返した。それからもう一度味を確認したがやはりオレンジジュースの味からはほど遠かったのでシンクに流し、グラスを洗うとミネラルウォーターを注いで部屋に戻った。
 ミネラルウォーターは別段問題ないようだ。
「頭がぐらぐらする……」
 溜息をつき、ベッドに腰を下ろす。
 眠るつもりは無かったのだが、いつのまにかベッドに伏してそのまま眠りに落ちていた。


 さらりと、優しい指が髪を梳く。
 眠りの闇から意識が浮上する。ゆっくりと柚花は目を開けた。
「起きた?」
 目を上げると、そこには彼女の顔を覗き込むカミュの顔があった。ベッドの端に腰掛けている。
「カミュ……?」
「うん、こんばんは。遅くなってごめん、色々する事があって」
 時計を見ると二時半だった。
「……ライアさんに会ったの?」
 起き上がって乱れた髪を整えながら訊ねた。
「短時間だけど会った。あいつの所にはまたこのあとゆっくり行く……かな。それと、何か所かで血液調達してきたから今満タン」
 冗談まじりに言って笑った。
「どこから血取る? さっきと同じでいいか、それともやっぱり基本だし首から取るか?」
 指先で自分の首筋をつつく彼の顔をまじまじと見ると、目が笑っている。
「その冗談笑えない……」
 いくら吸血鬼化しているかもしれなくても、いきなりそれはどうかと思う。
「結構本気なんだけど」
「とにかく、それはなし」
 恥ずかしいから、と心の中で付け足して、それからふと彼を見つめる。
 今ここにいる彼は本物だろうか?
「……?」
 どうしたと、ごく自然に彼女の頬に手を伸ばしてくる彼は、これまでの夢の中の彼と同じだ。彼女に向けられる甘やかで親しい意思。
「これは、夢じゃないのよね……」
 今目覚めて彼と話している自分は本物か。それとも夢か。
 彼が自分に夢を見せる必要がもう無い事は判っているけれど、それすら疑う自分がいる。
「全部、夢なら良かったよな」
 すまなそうに微笑んだ彼の顔はどこか悲しげで、彼女の心を濡らしてゆく。柚花は頬に触れる彼の手を握り、小さく首を振った。
 今の状況を招いたのは全て自分だという思いは、朝目が覚めた時からずっと常にあった。カミュのせいではない。彼に責任があるのではない。
 責任を感じて彼が沈んだ顔をしているのは、なんだか見ていて胸が痛かった。
 結局、夢の中の彼に多少なりとも惹かれていた自分は、この生身の本当の彼にも惹かれているのだろう、そう思う。
 彼女が握った手の中からカミュはそっと自分の手を抜き出した。そしてその手で彼女の手首を掴んで引き、再び彼女をベッドに横たえさせる。
 枕の上で柚花の頭を安定させると自分はベッドを降り、床に膝をついた。
 横目でそれを見つめる柚花を安心させるように笑う。
「ぐずぐずしてると朝になるからな」
 腕を口元まで持っていくと、己の牙で噛み裂いた。
 シーツに血がこぼれないよう、すぐにそこから溢れ出した血を口に含み、それから傷口を彼女の唇に差し付けた。
「口、開けて」
 抵抗する気は既になかった。
 そっと開いた彼女の口腔に、カミュの血が流れ込む。そして、すぐに気付いた。
 夕方の時と味が違う。
 さっきはもっと飲み込むのに躊躇する味だったが、今はそれよりもずっと、まるく優しい味だった。柚花は先程のオレンジジュースの苦味を思い出し、原因は自分の味覚にあるのだと得心する。
 ほのかに温かなその液体は柚花の身体を救うかもしれないが、それと同時に人から吸血鬼へと作り変えていくのだろう。カミュの言葉が嘘だったとなじる気にはなれず、やっぱり、という感想しか浮かばなかった。
 今後どうなるのかという柚花の問いに、後でと言ったきり彼はまだ答えていない。
 おそらくもうこのままこの家で暮らす事はできないだろう。もう学校に行く事もないかもしれない。それは恐ろしく現実感のない、けれど客観的に考えれば間違いなくそうなるだろうという奇妙な確信。
「何?」
 問いかける声は優しく穏やかで、彼と一緒も悪くないかなという気すらしてくる。柚花は彼の血を飲み下し、それから新たな血で喋れなくなる前に口早に「なんでもない」と言った。
「あの銀髪のあいつ、最近初めてここに来た訳じゃなかったんだな」
 ふと呟くようにカミュは言った。
「お前の姉ちゃんと知り合ったのは結構前なんだろ?」
 口がきけなかったので柚花は無言で頷いた。
「結局、何年か振りにまた会いに来たのは、完全に別れを告げるためだったんだな。あいつは自分の正体を知られたのは偶然だったと思ってたみたいだけど、一人なら偶然でもその妹は俺の夢を破った訳だし、多少は何か原因がある筈だ」
 しかも揃いも揃って人を骨抜きにしやがって。
 いたずらっぽい笑顔で、おそらく冗談なのだろう言葉を口にする。
「この家の血筋がうんぬんって話じゃなくて、土地の方って感じがするし悪いものじゃないから気にすることはないけどね」
 土地に何か問題があるのだろうかと少々心配になったのが顔に出たのか、カミュは続けた。
「俺達みたいな、人間から見れば良くないものの正体に勘付いたり、眠らせただけなのに俺の本質を読み取り悪夢として具象化したり、俺の与えた夢を破ったり出来るっていうのは、決して悪い事じゃないだろ? 知らなくてもいい事かもしれないけど。むしろこの土地は多分、教会や神社並に俺達とは相性が悪い」
 良くないもの。
 そう自らを断じて憚らない吸血鬼の存在、明るくふるまうその態度が、その内心を想像するとなんだか悲しい。
「だから今後俺達がいなくなっても、新たに何かが寄って来る心配はあまりしなくてもいい。ただ、もしも窓から何か怪しいものを見かけたとしても見なかった事にしろ。ここにいると感じやすくなるみたいだけど、それだけの事だから」
 柚花が喋れないのをいいことに、カミュは一方的に話す。
 その説明はなんとなく理解出来るような出来ないような話で、これまで特に何も見たり感じたりしたことのなかった柚花には実感がなかった。唯一の例外が息のかかるくらい側にいる以外は。
 それにしても、今後いなくなるのはライアだけなのに、と思う。
 いや、ライアだけというよりは、ライアとカミュと自分がいなくなるという方が正解か。これからも柚花はここにいられるかのような事を言うけれど、きっとこの身体はもう彼と同じモノに近付いている。彼は隠しているつもりなのか、それとも気付かない振りをしているのか。
 自分よりも年上の筈なのに、子供みたいだ。
 柚花はそっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。
 すべらかな白い頬。
「ん?」
 変わらぬ優しげな表情の彼から柚花は無言で手を離し、その手で彼の腕を押し退けた。
 起き上がってその傷口をなぞり、指先を血で染める。
「どうした?」
 周囲を汚さぬように慌てて傷口を一旦塞ぐカミュの唇に、彼の血で濡れた指で触れた。指先で柔らかな唇に紅を掃く様になぞる。
 赫い唇。血に染まった吸血鬼。
「何……」
 柚花は戸惑う彼の首に腕を投げかけ、赫くなまめく唇に自らのそれを重ねた。


「馬鹿、お前……」
 呻くように、唇が離れて最初に口を開いたのはカミュだった。
「昨夜といい、なんだってお前はそうなんだ」
 柚花の身体を抱きしめて、彼は今にも泣き出しそうだった。
「そうしたかったから」
 彼女は微笑んでそう答えた。
 自分の所に来た吸血鬼が他の誰でもなくカミュで良かったかもしれない、そんな気持ちに今はなっている。ライアは吸血鬼ではないようだが、彼が来たのが姉ではなく自分の所だったら、それともカミュが行ったのが自分ではなく姉の所だったら、きっと今こんなに雲を突き抜けたような晴れ晴れとした気持ちにはなっていないだろう。
「お前酷い女だよ、ガキのくせに」
 カミュは抱きしめた腕をゆるめて今度は彼の方から柔らかく口付けると、優しく柚花を押し戻した。そして唇に残った己の血を舐め、微笑む。
「今日は、これで帰る」
 にこりとした笑顔は何故か切ないほどに透明だった。
「カミュ、私……」
 言い掛けた柚花の言葉を彼は遮った。
「また明日。今後の事は明日、話すから」
「本当に?」
「うん」
 カミュは立ち上がり、向きを変えて歩いていくと窓を開いた。
「面白いもの見せてやろうか」
 言いながらこちらを振り向いた彼の背に、ふわりと巨大な黒い翼が現れた。
 ライアの背にあった──と言っても現実に見た訳ではないけれど──ものと同じ、羽根の生えた鳥類と同じ翼だ。
「どうして……?」
 吸血鬼と言えばコウモリや狼ではなかったか。
「俺は蝙蝠なんかにはならない。その気になればなれるんだろうけど。これは、俺が吸血鬼になる前から持っている翼だ。あいつと同じさ。つまり、昔は俺とあいつは似たようなものだったって事。意味はわからなくていい。人間は知らなくていい事だから」
 ただこれは、こういう見せ物さ。そう言ってカミュは笑った。
「もうおやすみ。しばらくすれば夜が明ける。眠れないなら、夢を見ない眠りをあげるよ」
 そこまでしてもらわなくとも自分で眠れる。小さく首を振った彼女に微笑んで、彼は窓枠を乗り越えた。
「じゃあな」
 ばさりと大きな翼が空を打ち、漆黒の鳥のように彼の姿は闇に紛れていった。
 その不思議な光景にしばらく目を奪われていたが、ふと気付く。
「あ……」
 おやすみなさいも言い損ねた、と柚花は溜息をついた。
 夜明けが近いといっても、特に朝日に気をつけろとも言われなかったのでまだしばらくは大丈夫という事だろうか。舌で探ってみても牙が生えてきた訳でも無く、なんとも中途半端だ。後はもう、また彼が来るのを待つより仕方がないようなのでおとなしく柚花は眠る事にした。朝まではもう少し眠れるだろう。


 翌朝の目覚めは妙にすっきりとしていた。
 昨夜の二度目のカミュの血が効いたのかもしれない。身体が楽になっていた。
 そして今のところ、やはり牙も生えていなければ朝日も平気なようだった。
 部屋を出て階段を降り、憂鬱そうな顔で朝食を摂る姉の様子には気付かない振りをしてキッチンに向かう。
 食事をした方がいいのかもしれないが、昨夜の経験からしてあらゆる食べ物の味が受け付けなくなっている可能性が高いので物を食べる気になれなかった。
 昨夜のグラスの水を捨て、再びミネラルウォーターを注いで部屋に戻った。
「おはよう」
 ぎょっとして、もう少しでグラスを取り落とすところだった。
 閉まっていた筈の窓が開いており、その窓枠に両腕を置いて、窓の向こう側にライアが浮いていた。浮いていた、というよりは窓に置いた両腕で安定させつつ、その非現実的な黒い翼でホバリングしていたと言った方が正しいかもしれない。
「……!」
 言葉を失う柚花に口早にライアは告げる。
「大丈夫、他の人間には見えてないから。後で昨日の公園に来てくれるかな、待ってるから。ここは柚芽がいるからまずいんだ」
 それだけ言ってすぐに窓から離れて行った。
 机の上にグラスを置き、窓から外を見たがもう既に何も見えなかった。


 夏休みの公園は小さな子供達の絶好の遊び場である。
 特に午前中はまだいくらか暑さをしのげる時間帯であり、幾人かの母親もいてとても訳ありの二人がゆっくりと話が出来る状況ではない事にライアも着いてから気付いたらしく、柚花が公園に着くとほっとしたような顔で場所を移動しようと歩き出した。
 隣を歩く彼が柚花の肩に手を置いているのは多分無意識なのだろう。それが容易に想像できるほどその手は自然で、何の意図も含まれていないのが判る。だから柚花も何も言わなかった。
 しばらく歩くと小さな川沿いに緑地帯が続き、涼しい木陰を提供していた。ここもまた、公園と同じく日頃通る事のない辺りだ。多分それは万に一つでも姉と会う事のないように考えての事だろう。家から駅周辺や図書館までの道のり以外はほとんど自分も姉も使う事がない。
 ゆっくりと川沿いを歩きながら、柚花の顔を見ずに前方を向いたままぽつりとライアが言った。
「あいつ、死んだよ」
 足が、止まる。それにつれてライアの手が離れていった。
 どういう事?
「伝言を預かってる、あいつから」
 柚花よりも数歩先で立ち止まり、ライアは振り返った。
「うそ」
 柚花は無理矢理笑顔を作る。だって、これは悪い冗談なのだから。
 ライアは無表情だった。
「生きてるでしょ。朝だからどこかで眠っているのよ」
 そう、広く言われているのが本当ならば、吸血鬼は太陽の光に弱いはずだ。
「ねえ、ライアさん」
 無表情のまま、ライアは無言だ。その顔は感情が動いていないのではなく、感情を表に出さないための無表情だった。
 その様子に彼女は真実を読み取った。
 柚花は昨日のライアの言葉を思い出した。「事と次第によっては殺す」と彼は言っていた筈だ。
「ライアさんが殺したの?」
 ゆっくりと彼は首を振る。
「だって言ったもの、『また明日』って。『今後の事は明日話す』って。ライアさんじゃなければどうしてなの?」
 我ながら駄々をこねる子供のようだと、頭の片隅で思いつつ柚花はライアに訴えた。
「君を人として生かすためだよ、柚花ちゃん」
 静かな声。
「君を人間のまま生かすには、君が完全に変わる前に親であるあいつが死ぬしか手段がなかった」
「なに……それ……。だって私はもう……」
 既に人間ではない筈。
「あいつが朝日の下に出て行ったから、多少変わり始めていた身体も人に戻ってる。君は人間だよ。人のままだ。これからもずっと」
 そんな話は聞いていない。
 カミュは何も言わなかった。何一つ。
「どうして……」
 どうして、何も言ってくれなかったのだろう。彼は選択肢をくれなかった。
 勝手に柚花の気持ちを推し量り、勝手に柚花の未来を選び、勝手に一人で決めて、勝手に……死んでしまったのだろうか。
「彼は死んだの?」
 どうしようもなく、悔しい。
「君のところから直接俺の所に来て、伝言を残して、一緒に夜明けを迎えた。満足そうに笑って、消えたよ」
 あんまりだ。
 けれど、思い返せば確かにカミュは柚花が吸血鬼になるとは一言も言わなかった。まだ人だ、決してお前を吸血鬼にはさせない信じろと言い、ライアに対しても彼の心配しているような事にはならないと言っていた。それを柚花は信じなかった。
 カミュは隠し事をしたけれど嘘はつかなかった。ただ、柚花が彼を信じられなかっただけだ。
 やるせない思いに唇を噛む柚花の前で、ライアは続けた。
「あいつはただの吸血鬼じゃないから……吸血鬼である自分を憎んでたから、更に吸血鬼を作る事には耐えられなかったんだろうな。聞いた? あいつと俺は元は同じ種族だった。俺はその中の特異な変わり種ではあるけど、根っこは同じだ。本来そんなものが人間でもないのに吸血鬼に襲われて吸血鬼化するなんてことは、恥曝しで屈辱以外の何物でもない」
 ライアの言う事を理解した訳ではない。彼もカミュも、それがどういう存在なのか柚花に教えるつもりはないようだ。だが、共通する巨大な黒い翼を持つ存在が、まともなものだとは到底思えなかった。つまり彼らの認識では吸血鬼は人間が「なる」ものであり、彼らの種族はそれよりも一段上というか、まったく異なる存在という事なのだろう。
「それなのに君を吸血鬼にしたら、自分自身を認める事になる。それに、自分が吸血鬼になって得た苦しみを柚花ちゃんに味わわせる事にも耐えられない。あいつにはそんな事は出来なかったんだよ。自分の手で柚花ちゃんを吸血鬼にするくらいなら、自分を殺す方がましなんだ」
 だからといって、そんな独り善がりな考え方で一言も告げずに逝ってしまうのはあまりにも酷い。
「そんなの、わからない……。私理解出来ない……!」
 カミュは昨夜何を考えていたのだろう。
 最後に見せた翼は、夢の中で見せていたような『人間』でもなく、そして『吸血鬼』でもない自分の姿を柚花に見せるためだったのか。
「……カミュから君に伝言だ。『人間であるお前は光の下で生きろ』、その身体に日の光を浴びて、カミュの分も生きてごらん」
 労るようなライアの言葉は、そっと彼女を包んでゆく。それでも……。
「そんなの奇麗事よ」
 口をついて出るのは恨み言ばかり。
「私の気持ちも無視して勝手に決めて。私の気持ちはどうなるのよ」
 ライアに言っても仕方がないけれど、他にぶつける相手もいない。
「頼むから、姉妹で同じ事を言って責めないでくれ。今は辛くても、人間にとってはそれが最善の道なんだ」
 はっとしてライアの顔を見上げる。
「俺も今日、ここを離れる。君にも柚芽にももう二度と会わない。それが一番なんだよ」
 淋しげな微笑みで彼は柚花の怒りを鎮めた。
「二人が将来人間として幸せに生きられるなら、今恨まれたって構わないんだ、俺も、カミュも」
 そんな言い方は卑怯だ。泣きたい思いで柚花はライアを見た。
「二人とも、酷い」
 やっとのことで絞り出すように呟いて下を向いた。
「そうだね」
 ライアは歩み寄ってくるとふわりと包み込むように彼女を胸に抱きしめて、ごめん、と言った。
 そしてそのまま離れていく。
 ずっと下を向いていた柚花がしばらくして顔を上げると、遠くに去って行くライアの後ろ姿があった。
 もうカミュに会えない事も、自分が人間であることも今はちゃんと本心から理解した訳ではなかった。夜になれば、また彼が夢でも現実でも、形はどうあれ普段通りにやってくるような気がする。だからきっと、夜を迎え、彼が姿を見せないまま明日の朝になって初めて、彼の不在を思い知る事になるのだろう。そして改めてその不在が彼女の胸を穿つことだろう。
 まったく、本当に酷い。
 柚花はとぼとぼと家に向かった。
 夏の陽射しが肌を焼く。この太陽がカミュを殺した。今は何もかもが恨めしい。
 光の下で生きろというカミュの願い。
 その「光」も彼の想いも、彼女には無性に悲しかった。

END      
(2006.5.12)

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「実はライアが殺した」とか「実は生きてる」というオチはありません。念のため。



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