緑柱石の瞳

−3−

 入口の前に座り込み、膝を抱えていたのは十二か十三ほどの少女だった。
 男の言葉はあながち嘘でもないらしい。豊かな金髪に白い肌、かわいいと言うよりは綺麗なと表現した方が近いかもしれない顔立ち。
 もう少し年を重ねていればここに置くことも口直しにすることも出来たのだが、いかんせんこれは幼すぎる。
 その目に映る己の姿がどのようなものかは容易に想像が付いた。獲物を屠ってきたばかりの人食い鬼、鮮血に染まった悪鬼の姿。見る者を恐怖に陥れずにはおかないその姿に、しかし少女は逃げることをしなかった。
 血まみれのまま戻って来た彼を見つけて立ち上がると、小さな少女は奇妙に冷静な声で言った。
「怪我……してるん、ですか?」
 見上げたその瞳が緑色なのを見て彼は珍しく思った。澄んだ湖のような緑色、彼と良く似た二粒の宝石。緑の瞳は他の色をした眼球と違う味がするだろうか。例えば野草を口にしたような? 口内に広がる草の汁の青くほろ苦い味……。そんな下らない想像が頭をかすめた。
「ただの返り血だ」
 答えながら、彼は少女を観察した。あの男が親なら無理もないが、かなり粗末な身なりをしている。人のお下がりか何かのようにくたびれ、薄汚れており、洗ってもきれいにならないものと思われた。手荷物は無骨な革の鞄がひとつ。
「我が恐くはないのか? 父親がどうなったかぐらい、見当はつこう」
 彼の身を赤く彩る血が誰のものなのかは言わずともわかるだろう。
 ここは人食い鬼の棲む森なのだから。
「私を、食べますか?」
 逃げる気配もなく、静かに少女は問い返した。
 そこに恐怖はなく、表情に漂う憂いは年齢に似合わぬものだった。ここで死のうと生きようと同じこと──そう告げているようにも見える。
 つまらぬ。
 彼は思った。少女には生気がなく、相手をしても何の面白みもなさそうだった。
「折角だが、子供は美味しくないのでな。早々に立ち去るがよい、命拾いしたことを幸運と思うことだ」
 少女の横をすりぬけ、ドアの把手を乾いた血のはりついた手で掴んだとき、その腕に小さな手が掛けられた。生活に荒れた手だ、と彼は見て取る。
「──何だ」
 そちらを見ることもせず、手を止めただけの緑の鬼に少女は頼んだ。
「私を、ここに置いて下さい」
 珍しい申し出だった。正気の状態の人の子が望む事とは思えない。
「馬鹿を言うものではない。今ならばこのまま見逃しても良いと言っているのだ。家におとなしく帰るのだな」
 振り返る手間すら掛けない彼になんとか話を聞いてもらおうと少女が叫んだ。
「帰るところなんてありません!」
 口のきき方を知らぬ娘だ──少々不快に思う。嵐のざわめきの方がまだましだ。
「雑音を我は好かぬ。声を荒らげねばできない話でもなかろうに」
 言いながら振り向いた彼は真っ直ぐにこちらを射抜く緑の輝きにぶつかった。久しく見ない、と言うよりも初めて見る、緑の鬼のものではない緑の瞳。どうやら、少しは中身も気力もあったらしい。
「ごめんなさい。でも、本当に行くところなんてないんです。もう、どこにも──」
 人間の中よりも緑の鬼のいる奥深い森の方が良いという、幼い少女──ゆっくりと、きまぐれな好奇心が首をもたげた。
「自分の面倒は自分で見られる者しかこの森にはいられぬぞ。我は何もしてやらぬ」
 たかが子供だ。いてもいなくても同じならば、いたいだけいさせてやれば良いではないか。放っておいても害などあるまい。自分に危害を加えるにはまだ幼すぎる少女だ。
 彼が前に森で飼っていた女を食べてしまってから、しばらく森には彼一人だった。だから、確かにまだ子供とはいえ、早めに女を仕入れておくのにやぶさかではない。この娘が大人になるまでにもっと使えそうな若い女が来たらどうするのだ、と警告するもう一人の自分がいる。だがその時のことはその時考えればいい。この瞳をしばらく手元に置くのもまた一興というものだ。
「料理も洗濯も裁縫もできます。お掃除も──迷惑は掛けません」
「それからもうひとつ」
 彼は少しばかり意地が悪かったかもしれない。それぐらいの自覚はあった。己の腕に乗っている少女の片手を掴み、からかうように唇に笑みを浮かべて尋ねる。
「大人になったら、我の子供を産んでもらうが、良いか?」
 もっとも、この年で正確な知識があるものかどうか。なかったところで別にどうという訳でもないが。驚いた様な顔をして、少女は彼を見上げる。
「鬼の子など、産むのが嫌なら出てゆくのだな」
 頼り無い目をして少女は首を振る。将来緑色を纏った人食い鬼に抱かれる時の感触を、そして人間の身で人ならぬモノを産み落とすのを想像するのはどれほど恐ろしいことだろう。それを彼女自身が目にすることなどないと、それは言う必要もないこと。それでも自分の胎内で化け物に等しいものを育てるのは気も狂うような事には違いなかった。だが、少女のその唇から紡ぎ出されたのは、意外な問い。
「私なんかで、いいんですか?」
「随分自分に自信がないのだな」
 彼は笑ってドアを開けた。吹き抜けの玄関ホールが屋敷を二つに分け、厚いガラスの嵌まった丸天井から入る光が中を照らしている。左右の壁に一つずつ付いているドアの右の一つを示して彼は言った。
「こちらには入ってはならぬ、今はまだな。人の子が触れては危険な物もあるゆえ、そのうちに触れてはならぬ物を教えてやろう。左のドアは屋敷の左半分につながっている。そちらは全て自由に使うがいい」
 そう言って開いたドアの向こうは階段と、廊下と、寝室につながる開いたドア。鞄をその場に置き、少女は寝室に入り込んだ。天蓋の付いた大きな広いベッドが壁の真ん中に置かれ、それでもなお部屋は身のおきどころをどこにしようか戸惑うほど広かった。窓からは深い緑色に沈む森の木々が見える。入れば人間は無事に出て来られぬという、緑の森。
「前の住人の使いやすいようになっているだろうが、家具を動かすなりそなたの好きにするがいい。地下にまだいくらか人の子のための食べ物も残っていよう。水は屋敷の左手の奥に泉がある。井戸もあるがそれは使えぬだろう。しばらく、本当に一人で自分の世話ができるものか試してみるのだな。我は眠る。数日経ったら起きてくるゆえ、それまで一人で生きてみよ。屋敷の右半分は立入り禁止だ。良いな」
 言いおいて出て行こうとした彼の所に戻って来た少女は綺麗な笑みを見せた。その淡い瞳は決意を秘めて輝き、緑の鬼である彼をして惹き寄せる力を持っている。
 彼女が気に入らなかったと言えば、それはやはり嘘になるだろう。まったく、もう少し育ってから来てくれれば良かったものを。彼は思いながら右のドアを抜け、地下に下りるとそこに湧いている泉で男の血を洗い流した。そしてその泉から水を吸い上げているためにいつでも瑞々しい、毒を持つ樹が作りあげたベッドで眠りについた。


 少女は一人で何から何まで自分の面倒を見ることに成功したらしく、五日後に彼が目覚めたときも逃げ出さずに屋敷に留まっていた。もっとも、森の木々が動物を捕まえてくれても皮を剥いだりするのがどうしてもできないと言って、菜食主義者に変貌してしまったのが問題といえばいえたかもしれない。今まで子供が屋敷にいたことはなかったので身体に合う服がなかったと見え、サイズを直すのに苦労したらしいが本人は満足気だった。
「あなたの名前を教えてくれますか?」
「名はない」
 彼は言った。誰も彼に名を授けず、誰も彼の名を呼ばない。それで不自由を感じたこともない。なぜなら、彼は緑の鬼なのだから。緑の鬼は彼一人しかいない。類似する者はこの世にはいないから、区別の必要もなかった。
「私はエメラルド。眼の色がそっくりだって。両親は青い眼だったのに……」
「海の向こうの異国には緑の瞳を持つ人間もいると聞く」
 見たのはこの娘が初めてだったが、彼は落ち着いて言った。
「でも、私の両親は遠くから移住してきたわけではないし、緑の眼を持った人なんて国のどこにもいなかったのに、私はこんな色で……」
「緑色は『こんな』色か?」
 彼は尋ねた。笑みを含んだ問い掛けに、エメラルドは他でもない、彼も緑色の眼を持っていることを思い出して顔を赤くした。それから相手が人食い鬼なのだと思い出し、青くなる。
 だが当の本人が全く気にしていないのを見て取ると、じっとその目をみつめた。
「私は呪われた子供だから、凶眼を持つのだと言われました。でもあなたの目は、私なんかの目よりずっと綺麗です」
 哀しそうな目を彼の髪に移すとおずおずと触れてもいいか尋ね、彼が怪訝な顔で頷くと背の半ばまである暗い緑色の髪にそっと手を伸ばした。
「緑の髪は珍しかろうな」
「森の妖精みたい──」
 くっくっと彼は笑った。あらゆる人間が恐れる、人を喰らう緑の鬼をつかまえて森の妖精とは。森の緑を映した色をその身に纏い、森の全てを支配するが妖精に例えられたのは初めてだ。艶のある緑の髪は緩やかな波を作り、生き物の様に彼女の手から流れ落ちた。
「私は……とても運がいいんだわ」
 彼女はぽつりと呟いた。
「そうかもしれぬな」
 喰われることもなく、傷つけられることもない。この森で暮らすことが人間にとって良いことかどうかは知らないが。
「私は、あなたをなんと呼べばいいのでしょうか」
「好きにしろ。どう呼ぼうと構わぬ」
 何と呼ばれようと構いはしない。鬼でも人殺しでもそれはそれでよい。それで間違いはないし、名前など彼には意味を成さぬものなのだから。
「ベリルではいけませんか?」
「緑柱石か──よかろう、それでよい」
 エメラルドも緑柱石である。だが、緑柱石というのはエメラルドの緑だけでなく、赤いものも青いものもあるということをこの小さな少女が知っているかどうか。だが、この先そう呼ばれるのに違和感がなくなってしまうほど、エメラルドを長く側に置き続けることになろうとは彼も予期していなかった。


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