緑柱石の瞳

−4−

 緑の森には暦もなく、時を告げる鐘の音も聞こえない。エメラルドは時間の区切りのないそんな生活に少しずつ慣れてきていた。日が昇ると眼を覚まし、日が落ちると明かりをつけ、そしてやがて眠る。人間の使う暦の上の年も月も、なければないでどうということもなかった。新しい年が明けようと森の中で祭りをするわけでもなく、そんなものに植物も動物もとらわれはしない。
 森は優しかった。
 例え何を秘めていようと森は彼女に優しかった。
 穏やかな時がここでは流れてゆく。微かに聞こえている鳥の声や、草木の揺れる音、誰一人として人間のいないこの緑の森で、時はまるで流れるのをやめたかのように感じさせるほど静かに流れているのだった。
 静かに落ち着いたこの森のなかで、かつてないほど心は静かだった。感じるべき孤独感はエメラルドにはなかった。今ほど満たされて優しい時間はなかったというのに、孤独だなどとは言えない。
 むしろ、人間性を認められなかったこれまでの方が孤独だった。
 今ほど幸せだったことなど今まで一度たりともなかった。
 そうなのだ。
 今になってエメラルドは気付いてしまった。自分は生まれてこのかた、楽しいと感じたことなど一度もなかったのだということに。
 幸せだと思ったことなどなかった。
 短い周期で生活環境が変わり、比較的楽な時もあれば辛い時もあったが、ましな時でも幸福に過ごしたことなどなかった。
 唯一穏やかに過ごせるのは空を流れる雲を見つめ、風の音に耳を澄ます時、陽光を肌に感じ、花や木を見つめる時だった。
 人の目を盗んで作った、一人で過ごす穏やかな時間。だがそれもやがては一時の養い手によって破られる。そう定められていた。
 だが今、静かな穏やかな時間はいつでも身の回りにあった。
 一人の時間をどう過ごすか、自分に一体何が出来るのか、慣れないことなのでまだ自分でも掴めない。けれど今はただ、森を眺めているだけで満足だった。さしたる目的もなく森の中を歩き、この森の全体像を把握するところからまずは始めよう。どこに何があるか自分の足で確認して、後のことはそれからだ。
 エメラルドの生活の第一歩はそんなところから始まろうとしていたのだった。
 そしてまた、エメラルドはベリルの存在にもすっかり慣れきっていた。ベリルは彼女と共に食事も取らないので、彼女としては自分だけならいくらでも手抜きができた。人喰い鬼と噂され、実際もそうであったが、ベリルは決してエメラルドを食べようとはしなかった。眠ると何日も起きてこないのと同時に何日も起きたままであったりしたが、起きていても彼女の前に姿を見せるとは限らず、エメラルドは大概彼のことを忘れていた。
 入り込むとあまりいい顔をされない屋敷の右側は、一階の書斎を除いたほとんどがまるで部屋の中に森が入っているようであり、最初にベリルが言ったようにエメラルドには危険な物がいくつもあった。人間が触れればやがて死に至るという、細い幹の木が絡み合って構成された寝室のベッドがそれであり、その葉が上の方で天蓋を作り上げているのを見てエメラルドはそこで何事もなく眠れるベリルに寒気を覚えた。それらは毒を持つため、虫の一匹さえもついてはいない。彼の身を守るためか、人間に害を与える植物は寝室が一番多く、案内されたエメラルドは二度とそこには入るまいと心に決めた。皮膚を溶かす樹液を出すもの、人間に寄生するもの、花粉を吸い込むと気が狂うという花はベリルの命令でおとなしくしていたのだが。
 おそらく、エメラルドが今まで暮らした同居人の中で、ベリルは最も理想的であったろう。二本の角や時折見え隠れする牙は慣れてしまえばなんでもないし、それはむしろ彼女の知るどんな人間よりも調和がとれていて美しかった。
 彼女に無理を要求することもなければ、彼女の心を傷つけるような言葉を投げることもない。食べる物は、それが人間だという事にさえ目をつぶれば自分で手に入れて食べてくるのでエメラルドが何かする必要もない。そして何より、彼は優しかった。
 優しいというのは語弊があるだろうか。無関心な優しさ。何もせず放っておいてくれる、そんな優しさをこれまでどれほど彼女が欲していたことか。得られたことなどなかったけれど。
 ベリルはどんな時も、決して怒りを外には見せなかった。声を荒らげることはなく、顔には微笑みがやどる(それが冷笑だったことがないとは言えないが)。
 問題と言えそうなことと言えば、その無関心が冷酷さと紙一重だという事ぐらいであった。森を荒らしに何も知らないならず者が来た時にも、彼はその唇に薄く笑みをのせ、「殺せ」と森に言うのだった──。自分が空腹でないときでも侵入者を生かして帰すつもりはないらしい。彼の命令に従い、植物は森に入り込んだ異物を抹消しにかかる。締め上げ、あるいは鋭い枝で突き破り、あるいは絡めとって地中深くに引きずり込む。生きて帰るのはごくわずかな者だけだ。その場合ですら、確実に精神に異常をきたす。
 彼は退屈しているときは自ら出てゆき、凄惨な地獄絵を思わせる血みどろの姿で帰ってくる。殺戮を楽しんででもいるかのように。そんな時はこころなしか機嫌が良さそうにも見えた。
 それこそが里の人間の恐れる人食い鬼の姿、情け容赦を知らぬ魔物の姿だ。だが、それすらもエメラルドにはどうでも良いことだったのだ。
「父親を喰った相手を、何故、憎みも恐れもしない?」
 変わった子供だと、ベリルが笑う。エメラルドは小さく微笑み返した。それは緑の鬼のそれにも似た、魔性の笑みだった。
「あれは、私の父ではありません」
 自分を殺そうと思っていた男を彼が殺したからといって、なぜ彼を憎まねばならないのだろう。憎む理由はない。そして、彼が自分を殺そうとはしない以上、恐れる理由もないのだ。実の両親との良い思い出などなかった。見開かれた四つの青い瞳と、拒絶の言葉が突き刺さったあの時の事のみ、繰り返し思い出される。
『これは私の子供ではない!』
『こんな緑の眼をした子供が、私の子供の筈がないわ!』
 あるはずのない、生まれた直後の記憶が彼女の脳裏にあった。
 これは後に聞かされた話に景色を付けたものなのか、それとも全て彼女自身の想像にすぎないのか……どうでもいいことだった。それが何であったにせよ、限りなく事実に近いということを彼女は知っていたのだから。
「あの男は私の遠い親戚から働き手として私を安く買い取ったのですが、邪魔になった私をあなたに食べさせるために、ここに連れて来たんです」
 只でなければいくらでもいいから引き取ってくれ、いらなくなったら捨てていいと言われて妻が身重な間の労働力として男はエメラルドを手に入れた。
 それの値段が牛や羊よりずっと安かった事もエメラルドは覚えている。
 鬼に食べられてしまったのだと言えば、罪を問われることもないだろうと男が考えていたことをエメラルドは知っていた。厄介な娘と思われていることぐらい、重々承知していたのだ。
 けれど、食べられたのは自分ではなかった。それどころか、前よりも自由な生活をさせてもらっている。なんて運がいいのだろう。
「初めの頃とは、随分態度が違うな」
 何かをさせられるわけでもなく、こんな広い屋敷に置いてもらえるのが不思議で、不安で……自分の子供を産めとベリルに言われても本当にこんな自分でいいのかとますます不安になった。親にさえ疎まれ、捨てられ、あちこちの家をたらい回しにされた自分。
「あなたを前にして嫌われるのを恐れるのは馬鹿な事だと気が付いたからです」
 その瞳を持つ彼には、自分の緑の瞳など、何の意味も持たないであろうから。
『気味の悪い眼だよ。あんな緑色をして』
『何を考えてるのかわかりゃしない』
『どこの誰だい、エメラルドなんて名前をつけたのは』
 数々の陰口さえもが、今では遠い。
 見ると吸い込まれそうなベリルの深い瞳は自分のものよりもはるかに美しいけれど、緑ということには変わりがない。青い瞳の両親からなぜ自分のような子供が生まれてきたのか、そんなことは分からないけれど、緑の眼を持つ人間に出会ったことなどないけれど、それでもベリルだけは同じだった。
「それは何故だ?」
「あなたの眼が緑だから」
 ベリルは意外そうな顔をした。仮面のような笑顔ではない、珍しい生の表情。
「私をこの森に置いてくれるベリル、あなたが髪も眼も緑だから私は安心していられる。緑の眼は魔性の眼だと言ってまともに扱ってくれなかった人間とは違うから、私はこの森でならどんな処よりも穏やかな気持ちでいられるんです」
 いままでの中で自分は今、一番幸せな時間を過ごしているとエメラルドは思った。大人になって、いつかベリルが自分に飽きてしまったら、彼は自分を食べてしまうのだろう。それでもずっと街で過ごすよりは幸せに違いない。それに、どちらが彼女を生き永らえさせてくれる道なのか、知れたものではなかった。
「運が良かったのだな」
 ベリルの冷たい眼がふっと和んだ。
「はい」
 エメラルドは微笑んで頷く。運が良かったのはどちらだろう? 自分に決まっている。
 歩み寄ってきたベリルが手を伸ばして、くいと顔を上向けさせる。見上げた彼の眼は、綺麗だった。綺麗な色だ──とても綺麗な、見る度に心惹かれる美しい緑。
「そなた、年は幾つだった?」
「十三……十四になったかもしれません」
 なにしろここには暦がないのだから、正確にはわからない。ただでさえ、本当の誕生日など知らないというのに。
 それにエメラルドは同じ年齢の子供より少し発育が悪い。満足に食べさせて貰えなかった時期が長いからだろう。十一かせいぜい十二歳にしか見えない。
「早く大人になるのだな」
 何を思ったか、そう言ってベリルは笑うと、エメラルドの部屋を出ていった。
 取り残されたエメラルドは呟いた。
「幾つになったら大人と言えるの?」
 身体が成熟するのを待っているのだろうか。数年は待ってくれると? 彼は待ってくれても、人間は待ってはくれない。十一の時一年間彼女を預かった母方の遠い親戚はその間己の店で彼女に身売りをさせていた──思えば、あそこにいた時は比較的まともな量の食事を出されていたが、それはがりがりに痩せていては商品にならないからなのだろう。ある日ベッドの上で死んでしまった客がいて、それは魔性の瞳への恐怖と警戒を引き起こし、エメラルドは別の親戚のところに回されたのだった。
 どうしても我慢が出来なかった。こんな風に男に抱かれるくらいなら死んだほうがましだと思ったその時、発作を起こして彼女の上に倒れ込んできたのだ。その感触と重さに悲鳴をあげ続けたあの時、平然とそれを見つめ、喜んでさえいるもう一人の自分がいたことも彼女は知っていた。
 身体は子供に見えるかもしれない、年齢以上に。だが色々な経験に心はひどく歪められた。そんなエメラルドには、ベリルが稀に見る常識的で良心的な男にさえ感じられた。ひょっとしたら、緑の鬼よりも人間のほうがはるかに魔性らしい心を隠し持っているのかもしれない。
 世の中を見る目までもが歪められてしまっていることに気付くには、彼女はあまりにも広い世界を知らなすぎていたのだった。


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