外界の娘 3


 娘であれば人里に。
 それでもそれは我等が愛し子。

◇      ◇      ◇

 真夕は楽しそうに自分を見下ろす白髪の青年をまじまじと見つめた。
 目の前にいるのは、どう見ても自分とは片手分の年齢差しかない青年。どう考えても父ではない。百歩譲って血縁に見えたとしても兄妹にしか見えないだろう。
「名前は真夕でいいんだな」
 確認されて言葉もなくこくんと頷く。
「母は?」
「あの……」
「彼女は今一人暮らしだ。真理江さんは今一緒に住んでいない」
 真夕が困っているのを見かねて冴木が助け船を出した。
「どうして一緒に住んでいないんだ? まだ嫁入り前だろう」
 得心が行かない様子で青年が真夕と冴木どちらにともなく訊ねる。
「そういう事もあるよ、別の土地で働いていたりすれば。白鬼、彼女が困っているよ」
 苦笑して冴木は真夕に椅子に座るように勧め、青年は邪魔にならないよう身を引いた。
「あれだって俺の子だ。どうせなら一目なりとも会いたかったぞ」
 ますます訳の判らなくなる事を言い、不満そうに青年は真夕の向かい側の椅子にどかりと腰を下ろした。椅子の背には黒い革のジャンパーが掛けてある。人がいるのを外から知られないよう部屋の電気を消していたのだろうが、暗闇の中でじっと待っていたのだろうか。
「それは仕方がないよ。……真夕さんは、我々について何も聞かされていませんね?」
 一人暮らしのためテーブルセットは椅子が二脚しかない。
 冴木は二人の間に立ち、テーブルに片手を付いて真夕に訊ねた。
「はい。さっき電話で母から冴木さんは遠い親戚だと聞いた以外は……あ、お茶! 入れますね。座って下さい」
 慌てて立ち上がり、足元に置いた自分のバッグをうっかり蹴飛ばしてしまう。あたふたとバッグを脇によけ、椅子を冴木に譲るとキッチンに向かう彼女を二人の青年は小さく笑って見ていた。
「あまり堅くならなくていいぞ」
 そう言ったのは多分白髪の青年だろう。
「真夕さん、明日も仕事ですね?」
「え? あ、はい」
 部屋から冴木に声を掛けられ、薬罐に水を入れながら答える。
「遠い親戚、か。間違いではないな」
「そうだね」
 部屋に戻り、真夕は電話台の横に立てかけていた折り畳み式の椅子を持ってくると自分用に置いた。これは、二人以上の友人が来た時に使うものだ。それで足りない時はもうクッションを並べて床に座る事になるが、聡美以外には地元の友人がこちらに出てきた時に一人で泊まったぐらいで複数の友人が一度に来た事はまだない。
 着ていた上着をベッドルームにしている隣の部屋に置いてくると、ハンガーを二本持ってきて二人に勧める。
「上着、掛けますからどうぞ」
 二人は礼を言いつつも遠慮し、それから冴木が訊ねる。
「真夕さん、食事もまだでしょう」
 言われてはたと気付いた。
 時刻は夜の九時を回っている。
「まだですけど、お二人は……」
 自分一人ならどうにでもなるが、大の大人三人分の食材は置いていない。
「何か取りましょうか。この時間だと……ピザくらいしか宅配はやってないかもしれませんけど。それとも駅の方まで戻ればお店がやってますからそちらに行っても……」
「我々の事はあまり気にしなくても」
 いい、と言い掛けた冴木を遮って、「食べる」と青年が言った。
「白鬼」
 咎めるような冴木の言葉を無視して彼は笑う。
「ピザとやらはこの時代の食い物だろう。俺は食べた事がない。それを頼む」
 呆れ顔の冴木の向かい側で、彼は面白そうに真夕を見ていた。


 結局宅配ピザを冴木が電話で注文して、それが来るまでの間に真夕はお茶を入れていた。
 何にするか訊ねたところシンプルに「緑茶で」と返ってきたので、なんとなく拍子抜けする。
「とりあえず自己紹介から始めた方がいいでしょうね。私は白鬼の付き添いですから後にするとして……白鬼」
 冴木に話を振られて白髪の青年はにやりと笑う。
「見れば判るだろう? 俺は白鬼で、お前は俺の子だ」
 全く判らない。
「はっ……?」
白鬼はくき、だ。白鬼びゃっきの方が呼びやすければそれでもいい。お前が送って寄越した守り袋に入っていただろう」
 あの、「白鬼」と書かれた何かの牙。
「あれは俺の牙だ。俺の名を書いた俺の牙を持っているのは俺の子しかいない。子と言っても俺の血を引いているという意味であって父ではないが、父で構わんぞ」
 だから、どう見てもそれほど年が離れているようには見えないのだが。
 それにもちろん彼に牙など生えていない。
「白鬼」
 冴木が苦笑いで彼を止めた。
「真夕さん、あなたにはなかなか信じられないでしょうが、根本的なところから入りましょう。でないと話が噛み合いません」
 テーブルの両側から二人がこちらを向いているとどうにも居心地が悪い。しかも髪形も髪の色も違うがこうして見るとどちらも容貌はよく似ていた。二人は兄弟だろうか。
「まず、今はこのような姿をしていますが我々は人間ではありません。厳密には同じものではありませんが、わかりやすくするには止むを得ません。日本の昔話に出てくるような鬼をイメージして下さい」
 角を生やし、金棒を持ち、女子供を攫ったり、桃太郎に退治されたりするあれか。
「我等は鬼なのです。そして真理江さんもあなたも白鬼と人間の娘との間に生まれた娘の子孫であり、つまりは鬼の血を引いた娘です」
 これは何の冗談だろうかと真夕は思いながら冴木を見ていた。
「全く信じておらんな」
 その顔を見て白鬼が呟く。
「まあ、仕方がないですね。こんな時代では」
 冴木は微笑み、続ける。
「信じられなければそれでも構いはしません。ただ、こんな話もあるという知識として聞いていただくだけでも。ですが、これが我々があなたに力を貸す理由であるという事は事実です。無関係の人間に対しては見返りも無しに我々は動いたりしませんから」
 そして冴木は語り始めた。

◇      ◇      ◇

「昔の話です。日照りや飢饉といった困った事が続いた時、神に花嫁として娘を捧げていた地方がありました。神の嫁など名目だけという事は承知の上です。それに、相手は神ではなく、鬼でした。鬼は本当に存在します」
「ここにも二人いる」
 そう言って白鬼がにやりと笑った。
「鬼が生贄を要求した訳ではありません、困った村人からの捧げ物を受け取っただけです。拒まなかった時点で同じ事かもしれませんが」
 冴木の静かな声には何の感情も含まれていなかった。
「ある長雨が続いた年、みおという娘が捧げられました」
 それを受けて白鬼が夢見るような口調で呟いた。
「雨の中を洞窟の奥にある祠に運ばれ、祠の前の一枚岩の上で冷たく濡れて、寒さと恐怖に震えていた」
 そして、ふいと顔を背ける。
「本来ならばいつも通り鬼達の腹の中に納められる娘です。……失礼、気分が悪いかもしれませんが、鬼とはそういう生き物です。むやみに人を襲いはしませんが、与えられた獲物をおいそれと無駄にはしません」
 真夕は口を挟む事はしなかった。彼らの話はまるで現実感がない。
「けれど、白鬼――彼です――白鬼が彼女に目を留めた。そして澪に選ばせた」
 それは二つに一つ。
 鬼達に喰われるか、白鬼の花嫁となるか。
「彼女は迷わず後者を選び、白鬼の花嫁となりました。鬼の女ならばいざ知らず、人間の娘に白鬼の外見は恐ろしかった筈ですけれどね」
 椅子の向きを変え、ベランダの窓の方を向いていた白鬼が振り返らず無造作に言った。
「死なずに済むなら迷わないだろう」
 酷い言い草だが正論だ。死んだ方がましというほどの相手なら話は別だが。
 それに花嫁の名目で捧げられたのならば、花嫁として迎えるのは間違いではない……と、思う。
「白鬼はあんな言い方をしていますが、二人は……澪は幸せに暮らしていましたよ」
 冴木は真夕に微笑んだ。
「やがて澪は身籠って、白鬼の子を産みました……女の子を。鬼の男と人間の女との間に出来た子は、男ならば鬼の子です。けれど女であれば鬼の血を引いていようともそれは人間の娘なのです。人間であれば鬼の中には置けません。娘であれば人里に帰すというのが決まりです。母がいなければ赤子は生きて行けませんから、澪は赤子と共に里に帰されました」
 生贄として差し出され、命を救われる代わりに鬼の花嫁となり、産んだ子が男でなく女だったという理由で村に戻される、それは幸せな事だろうか。
 周囲に翻弄されただけではないのか。女の意志はどうなる。女の立場が今よりもずっと弱かった時代の話だという事は解るが、釈然としないものが残る。
「澪は泣いていましたよ、次は鬼の子を産むから里に帰さないで欲しいと。村のために死ねと自分を差し出した人間よりも白鬼の傍がいいと言っていました。けれどこれは掟ですから、白鬼にも覆す事は出来なかったのです」
「考えなかった訳じゃない、この赤子を食って消し去ってしまえば、澪を手元に置いておけると」
 白鬼が振り返って小さく笑った。
「だが澪は人間だから長く生きられる訳ではない。ならばその子の行く末を見守る方がいいだろう」
 白鬼の手が真夕の方に伸ばされ、そっと頬に触れた。
「だから、こんな後の世でも澪と俺の血を引くお前に会えた」
 その手は温かかった。彼の──子? 自分が?
「それだけで俺は満足だ。案ずるな、お前は俺が守ってやる」
 白鬼の持つ雰囲気は冴木と比べると獰猛で粗削りで、その外見と相まって目眩のするような近付きがたい空気を醸し出していたが、それでも今の彼の表情には温かな優しさのようなものがあった。
 真夕は彼らの言葉を信じてもいないというのに。
「人間との間に娘を持った鬼には、里に下りた我が子を守る義務があります。娘だけではありますが」
 そんな二人を微笑んで見守りつつ、冴木は続けた。
「……?」
「つまり、鬼の男と人間の娘の間に生まれた娘は鬼の娘です。その娘と人間の男の間に生まれた子は、女ならばやはり鬼の娘ですが、男はもう関係がありません。娘と鬼との関係は、娘が女の子を産まずに死んだ時点で終わります」
 母は確か四人兄弟の末娘だ。上の三人は全部男で、どうしても娘が欲しかったのだと祖母の雪江は言っていた。いつか真夕にもわかるとも。
「鬼が娘を守るのは、愛しい我が子が鬼の血を引きながら外敵から身を守る術もなく不憫だというのが一番ですが、最初の一世代目に限っては別の理由もあります」
 冴木は言を継ぐ。
「人であっても鬼の血を引く娘が、更にまた別の鬼の子を産んだ場合、その子が女でも鬼として生まれる可能性があるからです」
 澪の子は神の娘として大切に扱われ、人間の男に嫁いで幸せに暮らした、と白鬼は言う。
「父親が白鬼でなければ新しい血を入れる良い機会ではあったのですが、白鬼の娘に手を出す鬼はいませんからね」
 そう言って冴木は微笑む。
「白鬼は不可侵ですから」
 良く解らないが、鬼の中では特別ということか。
 そう考えてから真夕はふと思う。こんな話を真に受けていいのだろうか。
 信じなくともいい、とは言われたのでそう悩まなくともいいのかもしれないが、これも母が言った「不思議な事があっても驚くな」のうちに入るのなら、驚かずに受け入れろという事になる。
 ましてや、母のみならず祖母のまた祖母もこの守り袋を使って彼らに助けを求めたとなればそれは軽く百年以上前の筈で、その時からこの二人が生きていたとなると……どう考えればいいのだろう。
「今はそういう事はないので、ただ純粋に我が子が可愛いから守るだけです。しかし、どうも鬼の血を引く娘は本能的に鬼に近い男を探すようで、澪の娘は別ですが、結婚後に相手と反りが合わずに別れる事が少なくありません。真理江さんもそうですが。真理江さんの母である雪江さんはその点利口でした。下手に鬼の面影を追わずに全く違う異国の男と結婚し、あまつさえそれを戦後の貧しいこの国に縛って己の身をこの国に置く事に成功し、我等の手助けを求めた事は一度も無かった」
 戦時中は気になって呼ばれなくとも時々遠くから様子を見ていたけれど、彼女は立派だったよと、冴木は白鬼に言った。
いくさか」
 ぼんやりと白鬼が呟く。
「昔とは違う、異国との大がかりな戦だよ。沢山人が死んだ」
 白鬼は知らないのだろうか。
 といっても真夕も自分が生まれる前の事など知らないが。
 真夕の視線に気付いたのか、白鬼は事も無げに言った。
「俺は最近まで死んでいたからな」
 首をかしげる彼女の視線の先で、彼は椅子を動かして向き直ると湯呑を手にして茶を啜った。額の上で髪を押さえたサングラスが蛍光灯の光を反射する。
 白鬼がそれ以上言わないので冴木が補足した。
「色々あって白鬼はつい最近まで封じられていたので、現代の知識があまりありません。いえ、ある程度の知識はありますが、経験を伴っていないので不都合はあるでしょう。ですから今回基本的には私が動きます、元々雑用に向いた方ではありませんし」
 真夕にとっての重大問題である今回の件を、雑用というあまりと言えばあまりな表現をするのには少々引っ掛かったが、白鬼は気にも留めなかった。
「やはりいくら経験豊かな鬼でも、女では足りないからな。人間の男を年代別に何人か喰わないと話にならん」
 茜だけではな、と真夕には意味不明な事を白鬼はぶつぶつと呟いている。
「それはおいおい用意するから。だけど今回のストーカーは使えないよ」
「判っている。狂者を喰って何になる。それより俺はピザが食いたい」
 白鬼の言葉に冴木は笑った。
「それは助かる」
 先程の一枚のファックスの後、電話は不気味に沈黙していたが、二人の話が良く理解出来なくとも一人ではないだけで真夕は少しだけ安心していられた。
 今日は早く寝るのは諦めた方が良さそうだが、そんな贅沢を言っている場合ではないだろう。

◇      ◇      ◇

 しばらくするとチャイムが鳴り宅配ピザがサイドメニューのポテトフライにチキンとサラダとソフトドリンク、そして二三本の缶ビールと共に届けられ、席を立とうとする真夕を冴木が押し止めると代わりに玄関に向かい、欲しがったのは白鬼だからと支払も彼が済ませた。白鬼もそれが当然の様な顔をしていたが、配達に来た店員の目に止まらぬ様に、その間だけ一旦席を立って玄関から見えない位置に移動していた。
 真夕がキッチンで皿とグラス、それにおしぼりを用意していると、テーブルの二人の会話が聞こえてきた。
「やはりこの格好はおかしくはないか」
「着物よりはずっとまともだから大丈夫だよ」
 彼は普段は着物を着ているのだろうか。
 着物がまともかまともでないかはともかく、着物姿で出歩く若い男などついぞ見かけないのは確かだ。
 白鬼の外見で着物姿だと鬼というよりは山姥のようなものを連想してしまいそうだと真夕はこっそり考える。もう少しましなところで連獅子だろう。
「そうか?」
 見ると、白鬼はなんとなく釈然としない様子だ。
 察するに、この服装は冴木のコーディネートらしい。
「白鬼の外見だとそれなりに着るものも選ばないと悪目立ちするからね。その格好ならただの恐い人に見えるから」
「なんだそれは」
 清潔感溢れる冴木の服装とは対照的だが、確かにあれで街中を歩いていても一応納得は出来る。サングラスをしていれば瞳の色も見えないし丁度良さそうだ。普通の服装で並の女よりも長い真っ白な髪はあまりにも目立ち過ぎるだろう。もしも着物だったら別の意味でもっと怖い。
「昔も今も白鬼は白鬼という事だよ」
「……そうか」
 その言葉で彼は全て納得したように見えた。
「あまり外に出ない方がいいな」
「その方が有難みがあるしね」
 彼らの話は、彼女には良く理解できなかった。
「そんな事は承知している」
 彼の言葉はちゃんと分かる……が、その服装と外見には不似合いでもあった。
 この中身は決して現代日本に生きるこの年代の若者ではない。
 彼らがいつから存在しているのかはわからない、江戸時代か戦国か、それとももっとずっと溯って平安の昔か。子供を作れるという事はおそらく世代交代もあるのだろうからそこまで昔の話ではないかもしれないが、実際の所はわからないし聞く気にもなれない。
 少なくとも二、三百年は生きていそうだ、と見当をつけただけでなんとなく気が遠くなるようだった。
 信じたかどうかは別として、彼らが鬼であると仮定してものを考える事にはどうやら真夕もいつの間にか慣れたらしい。
 それに気付いて真夕はそんな自分がちょっとおかしく、一人小さく微笑んだ。


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