外界の娘 4
結局、彼女も他の女と同じだった。
どうして女はみんなそうなんだ?
信じていた僕を裏切って他の男に平気で身を任せる雌犬だ。
汚らわしい雌豚め、どんな顔でその男に抱かれたんだ。
その男のしたいようにさせたのか? 僕だけに花開くべきその身体を?
その身体を好きにしていいのは僕だけだ。その身体は僕のものだ!
汚れきったその身体を最後に思う存分いたぶって僕の素晴らしさを思い出させてやろう。
そして泣いて謝り土下座して僕の元に戻ろうとするあの女を捨ててやるんだ。
あの女と同じように。そして今度こそ本当の恋人を探しに行こう。
白鬼は生まれて初めて食べると本人が言い、冴木もそれを特に否定しないピザを上機嫌で食べ、ビールを飲んでいた。和食とは似ても似つかないが、食べ物に関して特に好き嫌いは言わない質らしい。
冴木の方はビールには手を出さずに烏龍茶を飲んでいたが、白鬼の方はいま一つやる気があるのかないのか判らない。「雑用」を全て冴木にやらせ、真夕の顔を見に来ただけなのではないかという気がしなくもない。真夕はアルコールを口にする気分ではないのでジンジャーエールを飲んでいたが、目の前のおそらく四、五人前になるのではないかという食べ物は三人しかいないにも関わらず綺麗に食べ尽くされつつあった。
食事をしながら母や祖母の事を色々聞かれ、祖父は数年前に亡くなって祖母は伯父夫婦と暮らしている事、母は今郷里で一人暮らしをしている事などを真夕は話した。
祖母がまだ健在だという事は白鬼の興味を引いたらしい。
「今度様子を見てくるか。居場所判るか?」
電話番号は判るが住所は実家に帰るか母に聞かないと正確には判らない。行った事は勿論あるので駅名だけは告げたが、それ以上は判らないと言うと、では母に直接聞くからいいと言う。
母の所にも行くつもりらしい。
「白鬼、問題も何もないのにあまり関わるんじゃないよ」
「案ずるな、今回だけだ。長い事眠ってやっとの事で目覚めたらまだ俺の子が生き延びていたんだぞ。顔ぐらい見させろ」
冴木の小言も白鬼は笑って聞き流した。
ビールを注いだガラスのコップを眺めながら、今様の玻璃は美しいな、と呟く。何の変哲もない安物なのだが。昔であればガラスのコップは珍しいだろうし、その技術も今とは比べ物にならないだろうが、少なくともそれが日本に入ってきている時代に白鬼は生きていたらしい。長い間死んでいた、封じられていたというのがどういう事なのかは真夕には良く判らないが。
「酒も……悪くはないな。変わった酒だが」
日本酒の方が好みかもしれないが、生憎ここには料理酒しか置いていない。
白鬼は色々真夕に聞きたがったが、自分達の事については最初に説明した以上の事はあまり話そうとしなかった。
「余計な事は知らなくていい。お前は人間の娘なのだからな」
椅子の上で片膝を立てた行儀がいいとは言えない格好で、立てた膝に肘をついて白鬼は言った。その手の先で、ビールが半分入ったグラスがゆらりと揺れている。
磨き抜かれた硬玉のような不透明に白っぽい爪は、彼らが言うには白鬼が最近まで「死んでいた」ので古い部分であるためらしい。長い白髪が傷んでいるのも同様で、どちらも伸びればきれいになる、とのことだった。だが、それを真夕が目にする機会はないのだろう。
「さて……」
冴木が腕時計を確認しながら呟いた。そろそろ十一時になる。
「真夕さんには申し訳ないけど、このまましばらく待ってみよう。一緒に部屋に入って行った男が一向に出て来ないとなれば相手もやきもきして行動を起こすかもしれないし。起こさなければ明日にでもこちらから出向けばいい。真夕さんは休んでいいですよ。私達が起きていますから」
「いえ、大丈夫です」
そんな事が出来る訳が無い。今は仕事もそれほど忙しい時期ではないから、場合によっては明日休みを取っても大丈夫だろう、残業は増えるだろうが。
とりあえず二人に断って隣室に引っ込み、スーツからジーンズに着替えながら、眠気覚ましにコーヒーでも入れようと考える。
どうやら二人ともこの問題を一晩で終わらせるつもりのようだが、そう簡単にいくのかどうか。
「しばらくすれば電話の一本くらいは掛けてくるでしょう」
涼やかな落ち着いた声で冴木が言う。
「無言電話……」
「そう、この部屋で何が起きているか確認するために。一度くらいは留守番電話のまま焦らしてやればいい」
真夕を不必要に怯えさせないようにか、その態度は極めて冷静で余裕に満ちていた。
白鬼の方はと言えば食べ終わって満足すると椅子から下り、絨毯の上に胡座をかいて近くに放り出してあったファッション誌をぱらぱらとめくっている。こちらは余裕があるというよりはやる気がないとさえ言えそうな気もする。
あれ女性向けなんだけど、と思いつつも彼には物珍しいのだろうからいいか、と真夕は肩をすくめ、コーヒーを載せたトレイを脇にそっと置いた。
いつごろから電話やファックスが来るようになったのか、他に何か変わった事があったかなど、今回の事について冴木と色々話をしていると、突然電話が鳴った。
はっとして電話を見る。受話器を取らないように冴木が目で制し、二人は黙って鳴り続ける電話を見守っていた。
留守番電話が機械的に喋り出すと録音が始まる前に電話は切れ、すぐにまた電話が鳴り始める。
「放っておけ」
床の上でクッションに囲まれて寛いでいた白鬼が振り返り、笑った。
留守番電話が応答を始めると、電話はまたすぐに切れた。
そして再びベルが鳴る。
冴木は立ち上がって電話に近付くと受話器を上げ、そのまますぐに受話器をがちゃんと置いた。
だがすぐにまた電話が掛かってくる。腹を立てたように再び鳴り響くその電話のしつこさに、白鬼は少し呆れたようだった。
「そろそろ出ようか」
くすりと笑って冴木は受話器を取った。そして、その瞬間声のトーンをがらりと変える。
「しつこいんだよ、ストーカー野郎。こっちは取り込み中なんだ」
今までの余裕の態度など綺麗に隠し、苛立った声を作る。
それから、最初は目を丸くしていた真夕が徐々に赤面するような隠語混じりの罵倒の言葉を息もつかせぬ怒濤の勢いで長々と叩きつけた。
それから小さく息をつき、皮肉と嘲笑を滲ませた口調に変える。
「ベッドで真夕が待ってる。あいつの事は俺に任せて、小便して寝ろ、糞野郎」
最後にそう言うと、にこりと笑ってゴトリと受話器を電話の上に落とした。電話の向こうでは大きな音がしただろう。
そして振り返ると赤くなった真夕に向かって「失礼」と謝罪の言葉を口にした。
「……今のは何だ?」
白鬼が問うと、彼は微笑んだ。
「今の時代の下賤な言葉だよ。今時の言葉はあまり趣もないけれど、汚い言葉には事欠かない。少し相手の血圧を上げてやろうと思ってね」
そう答えて彼は電話機の音量調節のボタンを押し、音が出ないように設定した。音を消してもランプが光るので、電話が掛かってきた事は判るしファックスならば勝手に受信する。
「今頃電話の前で……か、望遠鏡の前でかは知りませんが、怒り狂っているでしょうね」
人の悪い笑みを浮かべた冴木の様子を見て真夕が思ったのは、やはり彼も白鬼も同類だ、ということだった。
「でも、白鬼がいる事は判らないんでしょうか? 昼間先に入っていたとしても、見られていない保証はないし……」
「それは問題ない」
白鬼がカップを片手に請け合った。
「最初にここに入った時は、俺もこいつもその戸口は通ってないからな」
「……?」
ベランダから忍び込んだのだろうか?
「じゃあ、窓から?」
「それはまあいいとして、とにかく、相手が見たのは先程私と真夕さんが帰ってきた時だけですから、ここに今三人いる事は知る筈がありません」
仮に二人でなく三人だと知ったとしても、もう一人が男である以上、今ならよからぬ想像をしそうですけどね。
そう言って冴木は笑ったが、真夕としてはあまり笑えなかった。
「俺は自分の子に手は付けんぞ」
「知っているよ」
どうしても緊張感の無い二人に、真夕は軽く溜息をついた。
それからしばらくして、連続してファックスが送られてきた。
ご丁寧に一語ずつA4の用紙に大きなフォントサイズで打ち出したものを次々と送りつけてくる。
十枚を超えたところで冴木がファックス用紙のロールを取り外してしまったので、エラーで送信されずにますます気が立っているかもしれない。
「用紙切れだと思わせておきましょう。『出て行け』から始まって、『裏切り者』に『売女』に『女を返せ』に『間男』『淫乱女』か……私宛と彼女宛が入り混じってるところを見ると、ちょっと微妙な精神状態ですね」
届いたファックスの束を手に面白そうに冴木が笑う。しかし、真夕は笑うどころではなかった。血の気が引くのか、手足が冷たい。
「真夕」
身体を温めようとコーヒーを入れ直していると、白鬼が後ろに立っていた。じゃらりという重い金属音がしたのは腰から下がっているチェーンだろう。ウォレットチェーンかと思ったら、ベルトの飾りらしい。
そうして立っていると、見た目は冴木の言う通り真夕の付き合いのある人間の中にはいないタイプの「ただの恐い人」だった。
冴木ももちろんそうだが鬼には見えない。
もっとも冴木はともかくこういうファッションで街を闊歩する若い男としては、その立ち姿は姿勢が良過ぎるかもしれない。昔の人間(人間ではないと自称してはいるが)は皆こうだったのだろうか。
「はい」
「疲れたら休んでいいんだぞ。なんなら子守歌でも歌ってやる」
真夕は苦笑して首を振った。今更子守歌という年ではない。
「お二人とも、背高いですね」
さりげなく話題を変えてみた。
「鬼だからな」
白鬼は笑った。皮肉の混じらない白鬼のこういう顔は好ましいものだ。真夕は笑みを返した。
それから部屋に戻って白鬼と冴木のカップにコーヒーを注ぐ。
礼と共に冴木が言った。
「今はあまり目立ちませんが、昔はこれほど大きいのは鬼ぐらいのものでしたからね」
今でも十分目立つと思うが、あえて異を唱える事はしなかった。
「鬼でも女性はもう少し低く……現代女性位の身長ですが。真夕さんや真理江さんの背が高いのは、雪江さんが結婚したのが日本人ではないからでしょうか」
「そうですね、多分」
真夕は頷く。
しばらくは色々話をしていたのだが、やがて間がもたなくなってきたのでテレビを付けた。
当たり障りのなさそうな映画のビデオをセットして、床の上でクッションに座って見ていたが、段々意識が朦朧としてくる。
「もういいから休め、真夕」
白鬼が言ったが真夕は首を振り、テレビ画面に目を凝らそうとする。
多分電話が鳴れば一気に目が覚めるのだろうが、電話は音が出ないようにしてしまった。ファックスが送れないとなればおそらくまた電話は掛かってきているのではないだろうか、白鬼も冴木も無視しているけれど。
うつらうつらしていると誰かが肩に何か掛けてくれる。隣に腰を下ろした白鬼の気配は動いていないから冴木なのだろう。
いくら「父」とその付き添いと言ってもここで眠るのはまずいと思ったが、睡魔に勝てそうもなかった。
毛布にくるまって、いつの間にか真夕は白鬼の肩に頭を預けて眠りに落ちていた。
「真夕」
耳元で囁く白鬼の声で目が覚めた。
目の前で映画のエンドロールが流れている。しかもそれは最初に見ていた映画ではない。ということは二本の映画が終わったということだ。真夕は目を見開いた。
窓の外が薄明るくなっている。おまけに──
目の前にあるのは彼女がくるまっている毛布の上に抱きかかえるように置かれた、レザーブレスの巻かれた白鬼の腕。
「ごめんなさい!」
真夕はがばっと起き上がった。
あろうことか、白鬼の膝を枕にしてしまった。
「気にするな」
白鬼は笑って手を伸ばすと寝乱れた彼女の髪を直し、先程のままテーブルの方から冴木も微笑む。
「ベッドに運ぼうかとも思ったのですが、動かして起こすのもかわいそうだったので」
真夕は己の失態を呪いながら冷たい水で顔を洗い口紅だけ塗り直すと、髪に櫛を通して部屋に戻った。
結局、夜の間には誰も来なかったようだ。
「仕方がないので、誘い込みますか」
冴木が不穏な発言をした。
「電車の始発はそろそろですか?」
問われて真夕は時計を見る。朝の四時半過ぎだった。
バッグから定期入れを出し、その中に入れた時刻表を見ると、最寄り駅の始発は五時七分だ。
そう告げると冴木は微笑んだ。
「では、五時になったら私は一旦ここを出ますね」
真夕が一人になったと思わせるために。
獲物を捕らえるためのお膳立ては、朝を迎え次の段階に入ろうとしているらしい。
「一度外に出て、陰から様子を見ます。誰かが来るならよし、来なければ来ないでまた次の手を打ちましょう。白鬼、頼むよ」
白鬼は頷き、それから冴木の方に歩み寄るとぐいと彼の髪を結んだ紐を引いてほどいた。
「何だい?」
「
全部ほどくと思った以上に長いその紐を冴木に返し、白鬼はにやりと笑った。
「なるほど」
そうして冴木が髪をおろしていると、やはり随分と二人は良く似ている事が判る。二人とも特に何も言わないけれど、彼らはやはり兄弟なのだろう。これだけ色が違うという事は一卵性の双子ということだけはなさそうだけれど。
少し経つと冴木は時計を確認し、席を立った。
「鍵は掛けても掛けなくても構いませんが……掛けた方がリアリティがあるかもしれませんね」
にこりと笑みを見せ、ジャケットを肩に担ぐ格好で玄関を出る。
閉じられたドアに鍵を掛け、真夕は部屋に戻った。数時間眠ったので頭は冴えている。
これから本当に「彼」は来るだろうか。
白鬼がいることを知らずにやって来るのか。来るのなら「何」をしに?
考えたくない。
電話の向こうの荒い息遣い。
彼女の人間性を無視した電話とファックス。
一体彼女に何を求めているのだろう。
冴木や白鬼よりもよほど非人間的だ。
「真夕」
はっとした。顔を上げるとそこには白鬼がいる。
「考えるな。俺がここにいる」
真夕は小さく頷いて、肩の力を抜いた。
冴木が出て行ってから十五分近く経った。
母が出て行った時はすぐに電話が鳴ったが、まだ電話は掛かって来ない。着信の音量を通常に戻したが電話は沈黙を続けている。
「恐ろしいか」
「少し」
無理に笑顔を作り、白鬼に答えたが実際のところ少しなどというものではなかった。
「お前を殺させはしない」
白鬼が言う。それは理性ではわかる。けれど心が納得していない。
白鬼一人で防ぎきれる保証がどこにあるのだ。彼が本当に鬼ならば、人間一人どうにでもなるかもしれないが……白鬼が真実鬼ならば。
まだ疑っているのかと思う気持ちと、常識で考えてそう思って当然と思う気持ちがせめぎ合う。けれどこの際、本当に鬼であってくれたなら。
がちゃりと、玄関のドアノブが音を立てた。
「……!」
全身が総毛立つ。
真夕はぎくりとして、白鬼は幾分か楽しそうな顔を玄関に向ける。
音もなく白鬼が立ち上がり、真夕の肩に手を置いた。
がちゃ、がちゃ、と鍵の掛かったノブが小さく左右に動き、それ以上動かない事を確認したかのようにそれは止んだ。それから──
ピンポーン
チャイムが鳴った。
「答えろ」と、白鬼が囁く。
「……。はい」
真夕が答えると、ドアの向こうで男の声がした。
「ごめん真夕、忘れ物した。開けて」
背筋に震えが走る。くぐもったような声でごまかしているが冴木の声ではない。
「知った声か?」
白鬼に問われ、大きく首を振る。全く知らない声だ。
「真夕」
チャイムが鳴る。
ドアの向こうに、今まで声も聞かせず顔も見せなかった男が立っている。それは何故か?
決まっている。冴木が挑発したからだ。
ドアの向こうの男は白鬼の存在を知らない。真夕が一人だと思っている。そして、その少し壊れた頭では真夕が彼の声を冴木と聞き間違えると思っているのだろうか。
「開けろ」
サングラスをテーブルの上に置き、落ちてきた前髪を片手でかきあげながら部屋を一歩出て白鬼が言った。
「でも」
ドアを開けたら何が起きる?
「心配するな、開けろ。鍵を開けるだけでいい」
廊下の途中にある、洗面所のある奥まった所に廊下を折れて白鬼は入っていく。
狂ったようにチャイムは鳴り続ける。こんな時間だ、このままでは隣の住人が起きて苦情を言って来かねない。
いっそそうなってくれればいいのにと思う。
白鬼がいても足が竦む。チャイムが割れ鐘のように頭に響く。
ゆっくりと歩いていき、震える手で鍵を開けた。
その瞬間、ドアが勢いよく外に開かれ、真夕は前のめりに倒れそうになった。
その肩を強い力で思い切り押され、今度は後ろによろめいて数歩下がる。
「どうして他の男を連れ込んだんだ」
男が土足で上がり込む。
「あ……」
肩を押さえて真夕は相手を見た。見覚えはある。どこでだった?
「人の目の前で他の男に抱かれるなんて、どういうつもりなんだ」
誰の目の前で誰が誰に抱かれたと言うのか。男の頭の中ではそういう事になっているのだと真夕は悟る。
服装は、普通の範疇に入る。目立つ特徴もない髪形。
けれどその顔は常軌を逸した嫉妬と怒りと欲望にどす黒く染まり、醜く歪んでいる。
多分どこかで一度くらいは会った事がある。けれど判らない。こんな男は知らない。真夕の頭の中は真っ白になる。
声が出ない。足もうまく動かない。恐怖。殺される。白鬼は何をしているのだ。白鬼……白鬼!
「おまえは僕のものだ!」
後ずさる真夕を部屋の中に突き飛ばし、男が部屋の中に一歩入って倒れた真夕の上に覆い被さろうとしたその時。
その襟首を掴み、男の後ろで白鬼が笑った。
「捕まえた」
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