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厩を出て屋敷の中に入った途端、争う気配を感じた。
それは正確に言えば争っていた気配の名残のようなものだったのだが。
留守にしていた者が、彼らが食事に出ている間に戻ってきたらしい。
「アレクス!」
まさか不意を突かれてやられるような奴ではないと思いたいが、大声で彼の名を呼ぶ。
「こっちだ」
冷静な声が上から降ってきた。息も乱していない。
ほっとして階段を上がっていくと、二階の廊下にアレクスが立っていた。
廊下の床には彼の剣が突きたてられている。その周囲にはどす黒い血の混じった砂塵が広がっていた。
「大丈夫か」
問いかけるとアレクスは頷いて剣を引き抜いた。奪った命を取り込んだようにその剣は力を増している。彼はそれがそういう剣だと気付いているだろうか。
「厩にいた奴が言ってた、通いで来てるって奴らしいな。外部の奴も仲間だったって事だ。ここが全滅させられたと知って来たんだろう」
心を動かされた様子もなくアレクスは淡々と告げる。
だがそれは一つの可能性を示唆してもいるのだ。
クラバールと名乗ったあの少年は、自分を捕まえている者達と自分を気にかけてくれていると思っていた男が同じ一族の仲間だとは知らなかったのだろうか?
「じゃあ、あの子は……」
「多分、もういないだろう」
もういない。殺されて存在を抹消された。
予想通りの返事を聞いたアルカムは苦い思いをかみしめた。
やはり自分がついていくべきだったのだ。そうすればすぐにその男も敵だという事が判ったし、少年も殺されずに済んだ。
まだ子供だったのだ。酷い環境の中で、自分を失わずに生きていた。
「かわいそうにな……」
だが、きっと彼はアルカムやディルブランのように留まりはしないだろう。
アルカムの目には周辺にクラバールの姿は見えなかったし、それに、彼を殺した男も既にアレクスが殺してしまった。
だから多分、彼はもう魂すらここには残していない。
「仕方ない」
アレクスが言った。きっぱりとした口調で。
アレクスが実際にどう思ったのかはわからなかったが、その言葉には思い悩むなというアルカムへの含みがあった。
残った敵が来なければ少年の死も知らないはずだった──その場合は敵を一人取り逃がすことになっていた訳だが。それでも少年の死にはなんら変わりは無い。
これまでの長い争いの歴史の中では、同じように巻き込まれて死んだ者もいただろう。クラバールが初めてではないし、おそらく最後でさえない。
だからといってそれらの死を全て背負う事は出来ないのだ。
彼らには他人のために使う時間と心のどちらも余裕がない。
そして、少年の故郷も家もわからない以上その死を知らせる事も出来ず、彼らに出来る事など何一つないのだった。それを踏まえた上での「仕方ない」だ。
「わかってる」
わからない筈がないではないか?
自分がどれだけの長い年月、何も出来ないまま無為に過ごして来たと思っているのだ。そんな事は言われなくとも良く判っていた。だがそれでも後味が悪い事に変わりはない。
「わかってるなら……」
「言うな、わかってるから」
言い掛けるアレクスの言葉をアルカムは遮った。
「お前よりわかり過ぎてるくらいだ」
アルカムの主張にアレクスは黙り、もうその話をするのはやめる事にしたらしかった。仮に疑いや不満を持っていたとしても、それらをきれいに押し隠した完璧な無表情だった。
夜も更けてアレクスが今夜の寝室に決めた部屋に引きこもってしまうと、アルカムも一人で落ち着ける一角を見つけてどっしりとした椅子に腰を下ろした。
本来ならば規則正しく眠る必要などないのだが、今は実体化して見せかけにすぎなくとも肉体を纏っている分力を使うので、多少は眠った方が効率が良かった。ベッドで眠る必要は全くないので夜を過ごす場所はどこでも良かったが。
片足を椅子の上に引き上げた態勢で、今は実体を取るだけ無駄なので霊体に戻り剣を抱くような姿勢で目を閉じた、その、時───
カツン、と床に蹄の当たる音がした、ような気がした。
目を開ける。今のは現実の音ではない。アレクスには聞こえなかっただろう。
視線を向けたその先に、外から壁を抜けて入ってくる黒い馬の姿があった。
──ディルブラン。
闇の中凝視するアルカムのことなど馬は眼中にないようで、闇を固めたような漆黒の身体を音もなく進めていく。その霊体はふわりと階段を一気に飛んで上の階に行った。
アルカムは実体である剣をその場に残し、その後を追った。
夜の廊下をゆっくりと馬は歩いていく。
アレクスの眠る部屋の前で一瞬止まると、するりとドアを通り抜けて入って行った。
アルカムはしばらく躊躇した後に自分もそのドアを抜け、それから少し後悔する。個人の領域に踏み込み過ぎたかもしれない。
アレクスの眠るベッドの傍らに、主を守るように漆黒の馬は立っていた。
「おまえ……?」
いつもそうなのか?
じっとアレクスを見下ろしているディルブランに近付く。
もしもアルカムが昼間と同じく実体化していれば、彼らが部屋の外に来た時点で即座に目を覚ましたのだろうが、アレクスはこちらに背を向けて目覚める気配もなく眠っている。
アルカムはそっとディルブランの頭に手を伸ばした。
口の利けない相手、それも己の愛馬ではないから外からでは心が通じない。
すっ、と指先が入り込み、互いの魂が重なるのをディルブランも避けなかった。
アルカムがディルブランを通じて見たのは、アレクスの姿だった。
生まれて間もないディルブランが見ていたまだ幼い少年が、刃物のような鋭い雰囲気を身に纏っていく過程。アレクスの両親の事をディルブランはよく覚えていない。彼が生まれてすぐに死んだからだ。彼にわかるのは、両親を殺したモノを殺すためにアレクスが力と孤独を求めていた事だけだった。
ディルブランの記憶の中のアレクスは時折微笑を見せる。勿論アルカムの知らない顔だ。だが今日初めて会ったのだしそれは別段不思議ではない。簡単に気を許すタイプにも見えないし、まあ当然の事だろう。
アルカムはまだ実際彼の戦いぶりを目にしていないが、ディルブランの見ていたアレクスは無慈悲に敵を殺していく殺戮者だった。怪我もないわけではなかったが、それで動きが悪くなるわけでもない。敵を威圧する闇色の瞳には迷いも恐れもなかった。
この馬が持っている感情はそんな彼の役に立ちたい、彼を守りたい、それだけ。
そして、一つ判った事がある。
この馬は、リョオを庇って死んだのだ。
その場にいなかったアレクスの代わりに、敵からリョオを守ろうとした。自分の命よりもそちらの方がより重要だからだ。アレクスが守る者は自分が守る者でもあるのだから、迷いなどなかった。
「そうか……お前……」
アルカムは馬の首から指先を引き出した。
気がつけば、ディルブランはアレクスではなく自分を見ている。
「ありがとな、あの子を助けてくれて」
軽く馬の首を叩いた。
そして、眠っているアレクスにふと目を移す。
敵と味方の死の匂いが渦巻くこの場所で、生者は彼一人だ。死した愛馬を連れ、死神のように命を奪う。
そちらに指先を伸ばしたのはちょっとした出来心だった。
アルカムもディルブランも今はアレクスにとってここにいないも同然なのだ。
だからアレクスは目を覚まさない。
彼は生身だからディルブラン程に読み取りやすくはないだろうけれど。そう思いながらそっと指先を彼の黒髪に滑り込ませた、その瞬間。
目覚めるはずのないアレクスが目を覚ました。
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